ダンス・ダンス・ダンス

何もやることがなかった。やるべきこともなければ、やりたいこともなかった。僕はいるかホテルに泊まるべくわざわざここまでやって来たのだ。その根本命題のいるかホテルがなくなってしまったわけだから、どうしようもなかった。お手あげだ。
とにかくロビーに下りて、そこの立派なソファに座って今日一日の計画を立ててみることにした。でも計画なんて立たなかった。街を見物したいわけでもないし、何処か行きたいところがあるわけでもなかった。映画を見て暇を潰すことも考えたが、見たい映画もなかったし、だいたい札幌まで来て映画館で時間潰しをするというのも馬鹿馬鹿しい話だった。じゃあ何をすればいい?
何もすることがなかった。
そうだ、床屋に行こうと僕はふと思った。考えてみれば東京にいるあいだは仕事が忙しくて床屋に行く暇さえなかったのだ。もう一カ月半近く散髪をしていない。まともな考えだった。現実的で健全な考え方だ。暇になったから、床屋に行く。筋が通っている。何処に出しても恥ずかしくない発想だ。
僕はホテルの理髪室に行ってみた。清潔で感じの良い床屋だった。混んでいて待たされるといいのにと期待していたのだが、平日の朝だったからもちろんすいていた。ブルーグレーの壁には抽象画がかかり、BGMに小さくジャック・ルーシェのプレイ・バッハがかかっていた。そんな床屋に入ったのは生まれて初めてだった。そんなのはもう床屋とも呼べない。そのうちに風呂屋でグレゴリオ聖歌が聞けるかもしれない。税務署の待合室で坂本龍一が聞けるかもしれない。僕の髪を切ってくれたのは二十歳過ぎくらいの若い理髪師だった。彼も札幌のことはよく知らなかった。このホテルが出来る前に同じ名前の小さなホテルがここにあったんだと言っても、はあと言っただけで特に感心もしなかった。そんなことはどうでもいいみたいだった。クールだった。おまけにメンズ・ビギのシャツを着ていた。でも腕の方は悪くなかったので、僕は一応満足してそこを出た。
床屋を出ると、僕はまたロビーに戻ってさてこれから何をしようかと考えた。四十五分が潰れただけだった。
何も思いつかなかった。
仕方なくロビーのソファに座ってしばらくぼんやりとあたりを眺めていた。フロントには昨日の眼鏡をかけた女の子の姿が見えた。僕と目が合うと、彼女はちょっと緊張したみたいに見えた。何故だろう?僕の存在が彼女の中の何かを刺激するのだろうか?わからない。そのうちに時計が十一時を指した。昼食について考えてもおかしくない時刻だった。僕はホテルを出てどこで何を食べようかと考えながら街を歩きまわった。でもどの店を見ても心が動かなかった。だいたい食欲というものが湧いてこないのだ。仕方無く適当に目についた店に入ってスパゲッティとサラダを注文した。そしてビールを飲んだ。今にも雪が降りそうだったが、まだ降り始めてはいなかった。雲はびくりとも動かず、『ガリバー旅行記』に出てくる空に浮かぶ国みたいに、都市の頭上を重く覆っていた。地上にある何もかもが灰色に染まって見えた。フォークもサラダもビールもみんな灰色に見えた。こういう日にはまともな事なんて何も思いつけない。
結局タクシーを拾って中心地に行き、デパートで買い物をして暇を潰すことにした。靴下と下着を買い、予備の電池を買い、旅行用の歯ブラシと爪きりを買った。夜食用のサンドイッチを買い、ブランディーの小瓶を買った。どれも特に必要というものでもなかった。ただの暇潰しのための買い物だった。それでとにかく二時間が潰れた。
それから僕は大通りを散歩し、特に目的もなく店のウィンドウを覗き、それにも飽きると喫茶店に入ってコーヒーを飲みジャック・ロンドンの伝記の続きを読んだ。そうこうしているうちにやっと夕暮れがやってきた。長い退屈な映画を見ているような一日だった。時間を無駄に潰すというのもなかなか骨の折れるものなのだ。
ホテルに戻ってフロントの前を通りすぎようとしたとき、誰かが僕の名を呼んだ。例の眼鏡をかけた受付の女の子だった。彼女がそこから僕を呼んでいた。僕がそちらに行くと、彼女はちょっと離れたカウンターの隅の方に僕をつれていった。そこはレンタカーの受付デスクになっていたが、看板のわきにパンフレットが積んであるだけで、係員は誰もいなかった。
彼女はしばらくボールペンを手の中でくるくると回しながら、何か言いたそうだがどう言えばいいのかわからないといった顔つきで僕を見ていた。彼女は明らかに混乱して迷って恥ずかしがっていた。
「申しわけないんですが、レンタカーの相談してるみたいなふりをしてて下さい」と彼女は言った。そして横目でちらりとフロントの方を見た。「お客様と個人的に話しちゃいけないって規則で決められているんです」
「いいよ」と僕は言った。「僕がレンタカーの値段を君に訊いて、君がそれに答えてる。個人的な話じゃない」
彼女は少し赤くなった。「ごめんなさい。ここのホテル、すごく規則がうるさいんです」
僕はにっこりした。「でも眼鏡がすごくよく似合ってる」
「失礼?」
「その眼鏡が君によく似合っている。とても可愛い」と僕は言った。
彼女は指で眼鏡の縁をちょっと触った。それから咳払いした。たぶん緊張しやすいタイプなのだろう。「実はちょっとうかがいたいことがあったんです」と彼女は気をとりなおして言った。「個人的なことなんです」
僕はできることなら彼女の頭を撫でて気持ちを落ち着けてやりたかったけれどそうもいかないので、黙って相手の顔を見ていた。
 「昨日話してらっしゃった、以前ここにあったホテルのことなんですけど」と彼女は小さな声で言った。「同じ名前の、ドルフィン・ホテルっていう……。それはどんなホテルだったんですか?まともなホテルだったんですか?」
僕はレンタカーのパンフレットを一枚手にとって、それを眺めているふりをした。「まともなホテルというのはどういうことを意味するんだろう、具体的に?」
彼女は白いブラウスの両方の襟を指でつまんでひっぱって、それからまた咳払いした。
「その……上手く言えないんですけど、変な因縁のあるホテルとかそういうんじゃないんですか?私、どうも気になって仕方ないんです、そのホテルのことが」
僕は彼女の目を見た。前にも思ったように、それは素直で綺麗な目だった。僕がじっと目を見ていると彼女はまた赤くなった。
「君が気になるというのがどういうことなのか僕にはよくわからないけれど、いずれにせよ話し始めるとかなり長い話になると思うんだ。ここで話すのはちょっと無理なんじゃないかな。君も忙しそうだし」
彼女はフロント・デスクで働いている同僚たちの方にちらりと目をやった。そして下唇をきれいな歯で軽く噛んだ。彼女は少し迷ってたが、やがて決心したように肯いた。
「じゃあ私の仕事が終わったあとで、会ってお話しできませんか?」
「君の仕事は何時に終わるの?」
「八時には終わります。でもこの近くで会うのは無理です。規則がうるさいから。遠くだったらいいけど」
「どこか離れたところで、ゆっくり話ができるような場所があったら、そこに行くよ」
彼女は肯いて、少し考えてからデスクに備えつけられたメモ用紙にボールペンで店の名前と簡単な地図を書いた。「ここで待っていて下さい。八時半までに行きます」と彼女は言った。
僕はそのメモをコートのポケットに仕舞った。
今度は彼女が僕の目をじっと見た。「私のこと、変な風に思わないでくださいね。こういうことするの初めてなんです。規則を破ったりするのは。でも本当にそうしないわけにいかないんです。その理由は後で話しますけど」
「変な風に思ったりしないよ。だから心配しなくていい」と僕は言った。「僕は悪い人間じゃない。あまり人には好かれないけれど、人の嫌がることはしない」
彼女は手の中でボールペンをくるくるまわしながら、それについて少し考えていたが、僕の言った意味はよく理解できなかったようだった。彼女は口もとに曖昧な微笑を浮かベ、それからまたひとさし指を眼鏡のブリッジにやった。「じゃあ、あとで」と彼女は言った。そして僕に営業用の会釈をしてから持ち場に戻っていった。魅力的な女の子だ。そして
精神的に多少不安定なところがある。
部屋に戻ると冷蔵庫からビールを出して飲み、デパートの地下食料品売り場で買ってきたロースト・ビーフのサンドインチを半分食べた。さて、と僕は思った。これでとりあえずの行動が決定されたわけだ。ギャがローに入り、何処に行くのかはわからないにせよ、状況がゆっくりと動き始めた。悪くない。
僕は浴室に行って、顔を洗い、また髭を剃った。黙って、静かに、何の唄も唄わないで髭を剃った。アフター・シェーブをつけ、歯を磨いた。そして久し振りにじっと鏡の中の自分の顔を眺めた。大した発見はなかったし、別に勇気も湧いてこなかった。いつもの僕の顔だった。
僕は七時半に部屋を出てホテルの玄関でタクシーに乗り、彼女のメモ用紙を運転手に見せた。運転手は黙って肯いて僕をその店の前まで運んでくれた。タクシーで千円ちょっとの距離だった。五階建てのビルの地下にあるこぢんまりとしたバーで、ドアを開けると程よい音量でジェリー・マリガンの古いレコードがかかっていた。マリガンがまだクルー・カットで、ボタンダウン・シャツを着てチェット・ベイカーとかボブ・ブルクマイャーが入っていた頃のバンド。昔よく聴いた。アダム・アントなんていうのが出てくる前の時代の話だ。
アダム・アント。
なんという下らない名前をつけるんだろう。僕はカウンターに座って、ジェリー・マリガンの品の良いソロを聴きながら、J&Bの水割りを時間をかけてゆっくりと飲んだ。八時四十五分をまわっても彼女は現れなかったが、僕は別に気にしなかった。たぶん仕事が長引いているのだろう。店の居心地は悪くなかったし、一人で時間を潰すのには馴れていた。僕は音楽を聴きながら水割りをすすり、飲み終えると二杯めを注文した。そして特に見るべき物もないので、前に置かれた灰皿を眺めていた。
彼女がやってきたのは九時五分前だった。「ごめんなさい」と彼女は早口で謝った。「仕事がのびちゃったんです。急にたてこんだうえにかわりの人の来るのが遅れたもので」
「僕のことならかまわないよ。気にしなくていい」と僕は言った。「どうせどこかで時間を潰さなくちゃならなかったんだ」
奥の席に移りましょうと彼女は言った。僕は水割りのグラスを持って移動した。彼女は革の手袋を脱ぎ、チェックのマフラーを取り、グレーのオーバーコートを脱いだ。そして黄色の薄いセーターとダーク・グリーンのウールのスカートという格好になった。セーター姿になると、彼女の胸は思ったよりずっと大きいことがわかった。そして耳には上品な金のイヤリングをつけていた。彼女はブラディー・マリーを注文した。
飲み物が来ると、彼女はそれをとりあえず一口すすった。食事は済んだかと僕は訊いてみた。まだだけれど、それほどおなかは空いていない、四時に軽く食べたから、と彼女は答えた。僕はウィスキーを一口飲み、彼女はブラディー・マリーをもう一口飲んだ。彼女は急いでやってきたらしく、それから三十秒ほどじっと黙って息を整えていた。僕はナッツをひとつ手に取ってそれを検分して齧り、またひとつ手に取って検分しては齧りというのを繰り返しながら、彼女が落ち着きを取り戻すのを待っていた。
彼女は最後にひとつゆっくりと溜め息をついた。すごく長い溜め息だった。自分でも長すぎると思ったのか、あとで顔を上げて神経質そうな目で僕を見た。
「仕事が大変なの?」と僕は訊いてみた。
「ええ」と彼女は言った。「けっこう大変なんです。まだよく仕事に馴れてないし、ホテル自体開業して間もないから、上のほうもいろいろピリピリしてるし」
彼女はテーブルの上に両手を出して、指を組んだ。小指に一本だけ小さな指輪がはまっていた。飾り気のない、ごくあたり前の銀の指輪だった。僕と彼女は二人でしばらくその指輪を見ていた。「その古いドルフィン・ホテルのことなんですけど」と彼女は言った。「でも、あなた、取材とかそういう関係の人じゃないですよね?」
「取材?」と僕はびっくりして聞き返した。「どうしてまた?」
「ちょっと訊いただけ」と彼女は言った。
僕は黙っていた。彼女は唇を噛んだままひとしきり壁の一点を眺めていた。
「少しごたごたがあったらしくて、それで上の方がすごく警戒してるんです。マスコミのことを。土地の買収とか、そういうことで……。わかるでしょ?そういうの書きたてられるとホテルとしては困るわけ。客商売だから。イメージが悪くなるでしょう?」
「これまでに何か書かれたことはあるの?」
「一度、週刊誌にね。汚職まがいのこととか、立ち退き拒否してた人を会社がヤクザか右翼を使って追い出したとか、そういうようなこと」
「それで、そのごたごたに昔のドルフィン・ホテルが絡んでいるわけ?」
彼女は小さく肩をすくめて、ブラディー・マリーをすすった。「多分そうじゃないかしら。だからマネージャーもそのホテルの名前が出てきて、警戒したんだと思うの、あなたのことを。ね、警戒してたでしょう?でも本当に私それについては詳しいことは知らないんです。ただこのホテルにドルフィン・ホテルっていう名前がついたのは、その前のホテルとの絡みがあったからだって話は聞いたことがあります。誰かから」
「誰から?」
「黒ちゃんの一人から」
「黒ちゃん?」
「黒服を着た連中のこと」
「なるほど」と僕は言った。「それ以外に何かドルフィン・ホテルについて耳にしたことはある?」
彼女は何度か首を振った。そして左手の指で右手の小指のリングをいじった。「怖いんです、私」と彼女は囁くように言った。「怖くてたまらないの。どうしようもないくらい」
「怖い?雑誌に取材されることが?」
彼女は小さく首を振った。そしてしばらくグラスの縁に唇をそっとつけていた。どう説明すればいいものか、思い悩んでいるみたいだった。
「違うんです。そうじゃないの。別に雑誌のことなんてどうでもいいんです。だって、雑誌に何が出たって私は関係ないもの。そうでしょう?上の方の人が慌てるだけだわ。私が言ってるのは全然別のことなの。あのホテル全体のこと。あのホテルには、つまりね、何かちょっとおかしいところがあるんです。ちょっとまともじゃないっていうのかな…歪んでいるところがあるの」
彼女は黙った。僕はウィスキーを飲み干し、おかわりを注文した。そして彼女のためにも二杯めのブラディー・マリーを取った。
「どんな風に歪んでいると感じるわけ、具体的に言って?」と僕は訊いてみた。「もし何か具体的にあればということだけれど」
「もちろんあります」と彼女は心外そうに言った。「あるけれど、それを上手く言葉にするのがむずかしいんです。だからそれについては今まで誰にも話したことがないの。感じたことはすごく具体的なんだけど、いざそれを言葉にしてみるとそういう具体性みたいなのがどんどん薄れていっちゃうんじゃないかという気がするんです。だから上手く話せないの」
「リアルな夢みたいに?」
「夢とはまた違うの。夢というのは、私もよく見るけれど、時間が経つと後退していくの。そのリアルさが。でもあれはそうじゃない。いつまで経っても同じなんです。いつまでもいつまでもいつまでも、リアルなの。いつまで経っても、そこにそのままあるの。さっと目の前に浮かぶんです」
僕は黙っていた。
「いいわ、何とか話してみます」と彼女は言って、酒を一口飲んだ。そして紙ナプキンで口を拭った。「一月だったわ。一月の始め。お正月が終わってちょっと経った頃。その日私は遅番でーー遅番ってあまりやらないんだけど、その日は人がいなくて仕方なかったわけーーそれでとにかく、仕事が終わったのが夜中の十二時ごろだったの。その時間に仕事が終わると、会社がタクシーを呼んで、みんなを順番に家に送り届けてくれるの。もう電車もないから。それで、十二時前に仕事が終わって、私服に着替えて、十六階まで従業員用のエレベーターで上がったんです。十六階には従業員の仮眠室があって、私そこに本を忘れてきたからなの。別にそんなの明日でもよかったんだけど、まあ読みかけだったし、それにもう一人いっしょのタクシーで帰ることになっていた女の子の仕事がちょっと手間取ってたんで、だからまあいいやついでだからと思って取りに上がったの。十六階には客室とは別にそういう従業員用の設備があるんです。仮眠室とか、ちょっとやすんでお茶を飲むところとか。だからちょくちょく行くことあるんですo
それでね、エレベーターのドアが開いて、私ごく普通に外に出たわけ。何も考えないで。ほら、そういうことってあるでしょう?いつもいつもやり馴れていることとか、行き馴れている場所とかって、特に何も考えないで行動するでしょう、反射的に?私もさっとごく自然に足を踏み出したの。考え事してたんだと思う、何かきっと。何だったかは覚えてないけど。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、廊下に立ってふと気づくと、あたりが真っ暗なの。まったくの真っ暗。はっとして後ろを見ると、エレベーターのドアはもう閉まってるの。停電かな、と思ったわ、もちろん。でもそんなことありえない。まず第一にホテルはしっかりした自家発電装置を持ってるの。だからもし停電があったとしても、すぐにそっちに切り換えられるわけ。自動的に、ぱっと。本当にすぐに。私もそういう訓練に立ち会ってるから、よく知ってるの。だから原理的に、停電というのは存在しないの。それにね、もし万が一、自家発電装置も故障したとしても、廊下の非常灯は点いてるはずなのよ。だから、こんな真っ暗になるわけがないの。廊下は緑色の光で照らされているはずなの。そうでなくてはならないの。あらゆる状況を考慮しても。
ところが、その時、廊下は真っ暗だったの。見える光といえばエレベーターのボタンと階数表示だけ。赤いデジタルの数字。私はもちろんボタンを押したわよ。でもエレベーターはどんどん下に行っちゃって、戻ってこないの。やれやれと思って、私はまわりを見回してみたの。もちろん怖かったけれど、でもそれと同時に面倒だなあとも思ったの。どうしてかわかる?」
僕は首を振った。
「つまりね、こんな風に真っ暗になっちゃうというのは、何かホテルの機能に問題があったということでしょう?機械的にとか、構造的にとか、そういうこと。するとまたえらい騒ぎになるのよ。休日返上で仕事させられたり、訓練訓練で明け暮れたり、上がぴりぴりしたり。そういうの、もううんざり。やっと落ち着いたばかりなのにね」
なるほど、と僕は言った。
「それで、そういうことを考えていると、だんだん腹が立ってきたわけ。怖いよりも腹立たしさの方が強かったわけ。それで私、どうなっているかちょっと見てやろう、と思ったの。で、二、三歩歩いてみたの。ゆっくりと。するとね、何か変なの。つまり、足音がいつもと違うのよ。私はその時ローヒールの靴を履いていたんだけれドイツもとは歩き心地も違うの。いつものカーぺットの感触じゃないのよ。もっとゴツゴツしてるの。そういうのって、私敏感だから、間違えたりしないわ。本当よ。それからね、空気がいつもと違うの。何と言えばいいのかな、黴っぽいのね。ホテルの空気とは全然違う。うちのホテルはね、完全に空気を空調でコントロールしているの。すごく気をつかってるの。普通の空調じゃなくて、良い空気を作って送ってるの。他のホテルみたいに乾燥しすぎて鼻が乾いたりしないように、自然な空気を送っているの。だから、黴臭いなんてことは、考えられないのよ。そこにあった空気はね、一口でいうと、古い空気。何十年も前の空気。子供のころ、田舎のおじいさんの家に遊びに行って、古いお蔵を開けて嗅いだような、そんな臭いなの。いろんな古いものが混じり合って、じっと澱んでいるようなね。
私はもう一度エレベーターを振り返ってみたの。でもこんどはもうエレベーターのスイッチランプも消えちゃっているの。何も見えないの。全部死んじゃったのよ、完全に。そりゃ怖かったわ。当たり前でしょう?真っ暗な中に私一人きりなんですもの。怖いわよ。でもね、変なの。あまりにもあたりが静かすぎるの。しーんと静まりかえっているの。物音ひとつしないの。変でしょう?だって停電して真っ暗になっちゃったのよ。みんな騒ぎだすはずでしょう?ホテルはほぼ満室だったし、そんなことになったらえらい騒ぎになってるはずですもの。なのに、気味が悪いくらい静かなわけ。それで私、何が何だか訳がわからなくなったの」
飲み物が運ばれてきた。僕と彼女は一口ずつそれをすすった。彼女はグラスを下に置いて、眼鏡に手を触れた。僕は黙って、彼女の話のつづきを待っていた。
「今までの感じはわかってもらえたかしら?」
「大体わかる」と僕は言って肯いた。「十六階でエレベーターを下りた。真っ暗だった。匂いが違う。静かすぎる。何かおかしい」
彼女は溜め息をついた。「自慢するわけじゃないけど、私はそれほど臆病な人間じゃないんです。少なくとも女の子にしては勇敢な方だと思うわ。電気が消えたからって、それだけで普通の子みたいにきゃあきゃあわめいたりしないわよ。そりゃ怖いことは怖いけれど、そういうのに負けちゃいけないとも思うの。だから何にせよ確かめてやろうと思ったの。それで手探りで廊下を進んでみたの」
「どっちの方?」
「右」と言ってから、彼女は右手を上げて、それが間違いなく右であったことを確かめた。「そう、右の方に進んだのよ。ゆっくりと。廊下はまっすぐだった。壁沿いにしばらく進むとね、廊下が右に曲がっていたの。そしてその先の方に、ぼんやりと光が見えたの。すごく弱い光よ。ずっと奥の方から洩れてくる蝋燭の光みたいなの。それで私、誰かが蝋燭をみつけて、それをつけてるんだなと思ったわけ。それで、とにかくそこに行ってみようと思ったの。近付いてみると、その蝋燭の光はほんの少し開いたドアからこぼれていたわ。変なドア。見覚えがないドア。うちのホテルにはそんなドアないはずなのよ。でもとにかくそこから光がこぼれてたの。私はそこの前に立って、それからどうしたらいいのかわかんなくなっちゃったの。中に誰がいるかもわからないし、変な人が出てきても困るし、それにドアにも全然見覚えがないし。それで試しに小さくドアをノックしてみたんです。聞こえるか聞こえないくらいそっと、コンコンと。でもその音は私が予想していたよりずっと大きく響いたのよ。あたりがすごく静かだったから。でも何の反応もなかった。十秒くらいね。その十秒くらいのあいだ、私はそのドアの前でじっとしていたの。どうすればいいのかわからなかったから。でもそれから中でかさこそという音がしたの。何というか、重い服を着た人が床から立ち上がるような、そういう音。そして足音が聞こえたの。すごくゆっくりとした足音。さら……さら……さら……、そういうスリッパをひきずって歩くような足音。それが一歩一歩とドアの方に近づいて来るわけ」
彼女はその音を思い出すように、宙を見つめた。そして首を振った。
「その音を聞いた途端に私ぞっとしちゃったの。これは人間の足音じゃないっていう気がした。根拠はないんだけど、直観的にそう思ったの。これは人間の足音じゃないって。背筋が凍りつくっていう感じが初めてわかったわ、その時。背筋って本当に凍りつくのよ。修辞的誇張じゃなくて。私、走って逃げたわ。一目散に。途中で一度か二度転んだと思う。ストッキングが破れてたから。でもそんなこと全然覚えてないの。ただ走って逃げたっていうただそれだけしか思いだせないの。走ってるあいだずっとエレベーターがまだ死んでたらどうしようとそのことばかり考えていたわ。でもちゃんとエレベーターは動いていた。階数表示もボタンもちゃんと電気がついていた。エレベーターは一階に停まってたわ。思いきりボタンを押すと、エレベーターは上がってきた。でもその上がり方がすごくゆっくりなの。本当に信じられないくらいのんびりしてるの。二階……三階……四階……ていう感じよ。早く来い、早く来い、とずっと念じていたけど、駄目なのよ。ものすごく時間がかかるの。なんだか人をじらしているみたいに」
彼女は一息ついて、ブラディー・マリーをまた一口すすった。そして指輪をくるくると回した。
僕は黙って話の続きを待った。音楽は消えていた。誰かが笑っていた。
「でもね、聞こえるのよ。足音が。さら……さら……さら……とそれは近づいてくるの。ゆっくりと、でも確実に。さら……さら……,さら……と。部屋を出て、廊下を歩いて、私の方にやってくるの。怖かったわ。いや、怖いなんてものじゃないわね。きゅっと胃がせりあがってきてね、喉のすぐ近くまで来ているのよ。そして体じゅうから汗が吹き出すの。嫌な臭いのする冷たい汗。寒気。まるで肌の上を蛇が這っているみたい。エレベーターはまだ来ないの。七階……八階……九階……。そして足音は近づいてくる」
二十秒か三十秒彼女は黙っていた。そして相変わらずゆっくりと指輪を回していた。まるでラジオのチューニングをしているみたいに。カウンター席で女が何かを言い、男がまた笑った。早く音楽をかけてくれないかなと僕は思った。
「そういう怖さってね、経験してみないとわからないわよ」と彼女は乾いた声で言った。
「それでどうなったの?」と僕は聞いた。
「気がついたら、エレベーターのドアが開いていたの」と彼女は言って、肩をちょっとすくめた。「ドアが開いて、そこから懐かしい電灯の光がこぼれていたの。私そこに文字通り転がり込んだわ。そしてがたがた震えながら一階のボタンを押したの。ロビーに戻るとみんなびっくりしたわ。だってそうでしょ、私は真っ青で、口もきけないくらいぶるぶる震えているんだもの。マネージャーが来て、おい、どうしたんだ、って尋ねた。それで私、息を詰まらせながら説明したの。十六階が何だか変だって。マネージャーはそれだけ聞くとすぐに男の子を一人呼んで、私と三人で十六階まで上がったの。何が起こったのかチェックするために。でも十六階はなんともなかった。電灯もあかあかとついていたし、変な臭いもしなかった。いつもとまったく同じよ。仮眠室に行ってそこにいた人にも訊いてみたの。その人はずっと起きてたけれど、全然停電なんかしてないっていうのよ。念のために十六階を隅から隅まで歩いてみたけれど、変わったところは何もなかった。狐につままれたみたいだったわ。下に降りるとマネージャーは私を自分の部屋に呼んだの。で、私てっきり怒られるものとおもっていたの。でも彼は怒らなかった。そしてもっと詳しく状況を説明しろって言うの。だから私、細かく全部説明したわよ。そのさらさらっていう足音のことまで。何だか馬鹿馬鹿しいような気がしたけれど。きっと夢でも見てたんだろうって笑い飛ばされるんじゃないかって思いながら。
でも彼、笑わなかった。それどころかすごく真剣な顔してるの。そして私にこう言ったの。『今のこと誰にも何もいうんじゃないよ』って。優しい言いきかせるような口調で。『何かの間違いだと思うけれど、他の従業員が怖がったりするといけないから、黙っていなさい』って。うちのマネージャーって、そういう優しい言葉づかいする人じゃないのよ。もっと頭ごなしに話す人なの。それでその時私はこう思ったわ。ひょっとして、こういう経験したのは私が初めてじゃないんじゃないかって」
彼女は黙った。僕は彼女の話を頭の中で整理してみた。何か質問した方が良さそうな雰囲気だった。
「ねえ、他の従業員がそういう話をしているのを聞いたことはある?」と僕は訊いた。「何か君の体験に通じるような異様なこととか、変わったこととか、不思議なこととか?ただの噂でもいいんだけど」
彼女は少し考えてから首を振った。「ないと思う。でもね、私は感じるのよ。あそこには何か普通じゃないものがあるって。私の話を聞いたときのマネージャーの反応もそうだったし、それにあそこはなんだかひそひそ声の話が多すぎるのよ。上手く説明できないけど、何かが変なの。私がこの前に勤めていたホテルなんて全然そんなことなかったもの。もちろんこれほど大きなホテルじゃなかったから、事情は少しは違うでしょうけど、それにしても違いすぎるの。前のホテルにも怪談話みたいなのはあったけれどーーどこのホテルにもひとつくらいはそういうのがあるのよーー私たちそんなもの笑いとばしていたもの。でもここはそうじゃないのよ。笑いとばすような雰囲気がないの。だから余計に怖いの。マネージャーだって、あの時笑いとばしてくれればよかったのよ。それとも怒鳴りつけるとかね。そうすれば私だってひょっとしたら何かの間違いだったんじゃないかとも思えたかもしれないのに」
彼女は目を細めて、手に持ったグラスをじっと見た。
「そのあとで十六階に行ったことはある?」と僕は訊いた。
「何度も」と彼女は平板な声で言った。「仕事場だから行きたくなくても行かなくちゃならない時はあるでしょう?でも行くのは昼間だけ。夜は行かない。何があっても行かない。もう二度とあんな目にはあいたくないもの。だから遅番もやらないことにしたの。やりたくないって上の人に言ったの。はっきりと」
「これまで誰にもその話をしてないんだね?」
彼女は一度だけ短かく首を振った。「さっきも言ったように誰かに話したのは今日が初めてよ。話そうにも話す相手がいなかったの。それにひょっとしてあなたがそのことについて何か心当たりでもあるんじゃないかと思ったから。その十六階の出来事について」
「僕が?どうしてそう思ったの?」
彼女は漠然とした目で僕を見た。「よくわからないけど……あなたは前のドルフィン・ホテルのことを知っていたし、そのホテルがなくなった事情について聞きたがっていたし……それで何か私の経験したことについて思いあたることがあるんじゃないかという気がしたの」
「とくに思い当たることはないようだね」と僕は少し考えてから言った。「それに僕もそのホテルについて特に詳しく知っているわけじゃないんだ。小さな、あまりはやっていないホテルだった。四年ほど前にそのホテルに泊まって、そこの主人と知り合って、それでまた訪ねてきたんだ。それだけだよ。昔のドルフィン・ホテルはごく普通のホテルだった。別に何かの因縁があったというような話も聞いてないね」
いるかホテルが普通のホテルだとはとても思えなかったけれど、僕としては今のところこれ以上話の間口を広げたくなかった。
「でも今日の午後私がドルフィン・ホテルってまともなホテルだったんですかって訊いた時、あなたは話が長くなるって言ったでしょう。それはどうしてかしら?」
「その話というのはとても個人的なことなんだ」と僕は説明した。「それを話し始めると長くなる。でも今君が話してくれたこととはたぶん直接的な関係はないと思うんだ」
僕がそう言うと彼女は少しがっかりしたようだった。彼女は唇をゆがめてしばらく自分の両手の甲を見ていた。
「役に立てなくて申し訳ないね。せっかく話してくれたのに」と僕は言った。
「いいの」と彼女は言った。「あなたのせいじゃない。それにとにかく話せてよかったわ。話しちゃって幾分すっきりしたから。こういうのってじっと一人で抱え込んでると、気持ちが落ち着かないの」
「そうだろうね」と僕は言った。「誰にも言わないで一人で抱えこんでると、頭の中でそれがどんどん膨れあがってくるんだ」僕は両手を広げて風船が膨らむ真似をした。
彼女は黙って肯いた。そしてリングをくるくる回して最後に指から引き抜き、またもとに戻した。
「ねえ、私の話を信じてくれる?その十六階の話?」と彼女は自分の指を見ながら言った。
「もちろん信じる」と僕は言った。
「本当に?でもそういうのって、異常な話じゃない?」
「たしかに異常かもしれない。でもそういうことってあるんだよ。僕にはわかる。だから君の言うことは信じるよ。何かと何かがふと繋がっちゃうんだ。何かの加減で」
彼女はそれについてひとしきり考えていた。「あなたはそういうのをこれまでに経験したことあるの?」
「ある」と僕は言った。「あると思う」
「怖かった、その時?」と彼女が訊いた。
「いや、怖いというんじゃないな」と僕は答えた。「つまりね、いろんな繋がり方があるんだよ。僕の場合は……」
でもそこで言葉が突然ふっと消えてしまった。遠くの方で誰かが電話のコードを引抜いたような感じだった。僕は一口ウィスキーを飲んでから、わからないと言った。「上手く言えない。でもそういうことってたしかにあるんだよ。だから信じる。他の誰が信じなくても僕は君の言うことを信じる。嘘じゃない」
彼女は顔を上げて微笑んだ。これまでの微笑みとは少し感じの違う微笑みだった。個人的微笑み、と僕は思った。彼女は話をしてしまったことで少しリラックスしたのだ。「どうしてかしら?あなたと話してるとなんだかよくわからないけれど、気持ちが落ち着いてくるみたいなの。私、すごく人見知りする方で、初対面の人とはあまりうまく話すことができないんだけれど、あなたにはすんなり話せる」
「それは我々二人のあいだにどこかしら相通じるところがあるからじゃないかな」と僕はにっこりと笑って言った。
彼女はそれに対してどう答えようかとしばらく迷っていたが、結局何も言わなかった。大きく溜め息をついただけだった。でも悪い感じのするため息でなかった。ただ単に呼吸を調整しただけだった。「ねえ、何か食べない?急におなかが空いてきたような気がする」
僕は何処かにきちんと夕食を食べにいこうと誘ってみが、彼女はここで軽く食べるくら
いでいいと言った。それで僕らはウェイターを呼んでピッツァとサラダを注文した。
食事をしながら僕らはいろんな話をした。彼女のホテルの仕事のことや、札幌での生活について。彼女は自分自身について話してくれた。彼女は二十三だった。高校を出て、ホテの従業員教育をする専門学校で二年勉強した後、東京のホテルで二年働き、それからドルフイン・ホテルの募集広告に応募して採用され、札幌にやってきたのはのは彼女にとっては好都合だった。というのは、彼女の実家は旭川の近くで旅館を経営していたからだ。
「わりにいい旅館なのよ。古くからやっていて」と彼女は言った。
「じゃあここで君は見習いとか修業のようなことをやっているわけ、家業を継ぐための?」と僕は訊いてみた。
「というのでもないの」と彼女は言った。そしてまた眼鏡のブリッジに手をやった。「継ぐとかそういう先のことまでは全然考えてないの、まだ。私はただただ単純に好きなのよ、ホテルで働くのが。いろんな人が来て、泊まって、去っていく、そういうのが。そういう中にいるととてもほっとするの。安心できるの。子供の頃からそういう環境にいるでしょう。馴れてるのね」
「なるほどね」と僕は言った。
「どうしてなるほどなの?」
「フロントに立っていると君は何だかホテルの精みたいに見える」
「ホテルの精?」と彼女は言って笑った。「素敵な言葉。そういうのになれたら素敵でしょうね」
「君なら、努力すればなれる」と僕は言って微笑んだ。「でも、ホテルには誰も留まらないよ。それでいいの?みんなやってきてただ通り過ぎて行くだけだよ」
「そうね」と彼女は言った。「でも何かが留まると、怖いような気がするの。どうしてかしら?臆病なのかしら?みんながやってきて、そして去っていくの。でもそれでほっとするの。変よね、そんなのって。普通の女の子ってそんな風には思わないでしょう?普通の女の子って何か確かな物を求めているものなのよ。違う?でも私はそうじゃない。どうしてだろう?わからないわ」
「君は変じゃないと思う」と僕は言った。「まだ定まってないだけなんだ」
彼女は不思議そうに僕を見た。「ねえ、どうしてそんなことがあなたにわかるの?」
「どうしてだろう?」と僕は言った。「でも何となくわかるんだ」
彼女はしばらくそれについて考えていた。
「あなたの話をして」と彼女は言った。
「面白くない話だよ」と僕は言った。それでもいいから聞きたいと彼女は言った。それで僕は少しだけ自分のことを話した。三十四で、離婚経験があって、文章を書く半端仕事をして生計を立てている。スバルの中古に乗っている。中古だけれど、カー・ステレオとエアコンがついている。
自己紹介。客観的事実。
でも彼女は僕の仕事の内容についてもっと知りたがった。隠す必要もないので、僕は説明した。最近やった女優のインタビューの話と、函館の食べ物屋の取材の話をした。
「そういう仕事ってとても面白そうだわ」と彼女は言った。「面白いと思ったことなんて一度もないよ。文章を書くこと自体は別に苦痛じゃない。文章を書くのは嫌いじゃないんだ。書いているとリラックスする。でも書いている内容はゼロなんだよ。何の意味もない」
「たとえばどういうところが?」
「たとえば一日に十五軒もレストランやら料理屋やらを回って、出てきた料理を一口ずつ食べて、あとは全部残すなんてことが。そういうのってどこかが決定的に間違ってると僕は思うんだ」
「でも全部食べるわけにもいかないんでしょう?」
「もちろんいかない。そんなことしたら三日で死んでしまう。みんな僕のことを馬鹿だと思う。そんなことして死んでも誰も同情してくれない」
「じゃあ、仕方ないでしょう?」と彼女は笑いながら言った。
「仕方ないよ」と僕は言った。「それはわかっているんだ。だから雪かきのようなものだよ。仕方ないからやってるんだ。面白くてやっているわけじゃない」
「雪かき」と彼女は言った。
「文化的雪かき」と僕は言った。
それから彼女は僕の離婚について知りたがった。
「僕が離婚しようと思って離婚したわけじゃない。彼女の方がある日突然出ていったんだ。男と一緒に」
「傷ついた?」
「そういう立場に立てば普通の人間なら誰でも多少傷つくんじゃないかな」
彼女はテーブルに頬杖をついて僕の目を見た。「ごめんなさい。変な訊きかたをして。
でもあなたはどういうふうに傷つくのか、うまく想像できなかったの。あなたってどういう風に傷つくのかしら?傷つくとどうなるのかしら?」
「キース・へリングのバッジをコートにつけるようになる」彼女は笑った。「それだけ?」
「僕が言いたいのは」と僕は言った。「そういうのって慢性化するってことなんだ。日常に飲み込まれて、どれが傷なのかわからなくなっちゃうんだ。でもそれはそこにある。傷というのはそういうものなんだ。これといって取り出して見せることのできるものじゃないし、見せることのできるものは、そんなの大した傷じゃない」
「あなたの言いたいことはすごくよくわかる」
「そう?」
「そうは見えないかもしれないけれど、私だっていろんなことで傷ついたのよ、ずいぶん」と彼女は小さな声で言った。「それでいろいろあって結局東京のホテルも辞めちゃったの。傷ついたの。辛かったし。私ってある種のことが上手く人並みに処理できないの」
「うん」と僕は言った。
「今でもまだ傷ついている。そのこと考えると今でも時々ふっと死んでしまいたくなる」
彼女はまた指輪を外して、またもとに戻した。それからブラディー・マリーを飲み、眼鏡をいじった。そしてにっこりと笑った。
僕らはけっこう酒を飲んでいた。何杯注文したのかわからなくなるくらい飲んでいた。時計はもう十一時を回っていた。彼女は腕時計を見て、明日の朝早いからもう帰ると言った。家までタクシーで送ると僕は言った。彼女のアパートは車で十分ほどのところにあった。僕が勘定を払った。外に出るとまだ雪がちらついていた。たいした雪ではないが、路面は凍りついてつるつると滑った。それで僕らは腕をしっかりと組んでタクシー乗り場まで歩いた。彼女は少し酔っぱらってふらふらしていた。
「ねえ、その土地買収のごたごたについて書いた週刊誌のことだけどね」と僕はふと思い出して言った。「その週刊誌の名前は覚えてる?それと大体の発売日と」
彼女はその週刊誌の名前を教えてくれた。新聞社系の週刊誌だった。「たしか去年の秋くらいだったと思うわ。私が直接読んだわけじゃないから、詳しいことはよくわからないけれど」
僕らは小雪の舞うなかで五分ほどタクシーがやってくるのを待った。そのあいだ、彼女は僕の腕をずっと掴んでいた。彼女はリラックスしていた。僕もリラックスしていた。「こんなにのんびりしたのは久し振り」と彼女は言った。僕の方もそんなにのんびりしたのは久し振りだった。我々二人の間には何かしら相通じるところがある、と僕はあらためて思った。だからこそ一目会った時から僕は彼女に好意をいだいていたのだ。
タクシーの中で僕らはあたりさわりのない世間話をした。雪のこととか、寒さのこととか、彼女の勤務時間のこととか、東京のこととか、そういうことだった。そういう話をしながら、僕はこのあと彼女をどうしたものかと思い悩んでいた。もうひと押しすれば彼女と寝られるだろうということは僕にはわかっていた。そういうのはただわかるのだ。彼女が僕と寝たがっているかどうかまではもちろんわからない。でも僕と寝てもいいと思っていることはわかった。そういうのは目つきや呼吸や喋り方や手の動かし方でわかるのだ。そして僕としてももちろん彼女と寝たかった。寝ても面倒なことにはならないだろうということもわかっていた。やってきて去っていくだけなのだ。彼女自身が言うように。でも僕には決心がつかなかった。そういう風に彼女と寝るのはフェアじゃないんじゃないかという思いが、頭の隅からどうしても去らなかった。彼女は僕より十歳年下で、どことなく不安定で、おまけにかなり酔っぱらって足がよろけていた。そんなのはしるしのついたカードでトランプ・ゲームをしているみたいなものだった。フェアじゃない。
でもセックスの領域でフェアネスというものがどれだけの意味を持つのか、と僕は自問してみた。セックスに公正さを求めるんならどうしていっそのことミドリゴケにでもならないんだ、その方が話が早いじゃないか、と僕は思った。
これも正論だった。
僕はその二つの価値観の間でしばらく思い悩んでいたが、タクシーが彼女のアパートに到着するちょっと前に、彼女がすごくあっさりとそのジレンマを解消してくれた。「私、妹と二人で暮らしてるの」と彼女が僕に言ったのだ。
それで、それ以上あれこれと考える必要がなくなって、僕はいささかほっとした。タクシーがアパートの前に止まると、彼女は悪いけれど怖いので、ドアの前までついてきてくれないかと僕に言った。夜おそくになると時々廊下に変な人がいることがあるの、と彼女は言った。僕は運転手に五分で戻るからここで待っていてくれと言って、彼女の腕をとって入り口まで凍った道を歩いた。それから僕らは階段を三階まで上がった。余計なもののついていないシンプルな鉄筋のアパートだった。306という番号のついたドアの前までくると、彼女はバッグを開け、中に手を突っ込んでキイを探し出した。そして僕に向かってどことなく不器用そうに微笑んで、ありがとう、楽しかったわと言った。
僕の方も楽しかった、と僕は言った。
彼女は鍵を回して開け、キイをまたバッグに仕舞った。口金の閉まるぱちんという乾いた音が廊下に響いた。それから彼女は僕の顔をじっと見た。黒板に書かれた幾何の問題をじっと見ているような目付きだった。彼女は迷っていた。彼女は戸惑っていた。僕に上手くさよならを言えないのだ。僕にはそれがわかった。
僕は壁に手をついて彼女が何かを決心するのを待った。でもなかなか決心がつかなかった。「おやすみ。妹さんによろしく」と僕は言った。
彼女は四秒か五秒の間、唇をきっと固く結んでいた。「妹と住んでるっていうの、あれウソなの」と彼女は小さな声で言った。「本当は一人で住んでるの」
「知ってるよ」と僕は言った。
彼女はゆっくりと時間をかけて赤くなった。「どうして知ってるの?」
「どうしてだろう?ただわかるんだよ」と僕は言った。
「あなたって嫌な人ね」と彼女は静かに言った。
「そうだな、そうかもしれない」と僕は言った。「でも最初に断ったように人の嫌がることはしないよ。何かにつけこんだりもしない。だから何も嘘なんかつくことはなかったんだ」
彼女はしばらく迷っていたが、やがてあきらめたように笑った。「そうね。嘘なんかつくことなかったのね」
「でも」と僕は言った。
「でも、とても自然についちゃったの。私も私なりに傷ついたのよ。さっきも言ったように。いろんなことがあって」
「僕だって傷ついている。キース・へリングのバッジだって胸につけてる」
彼女は笑った。「ねえ、少し中に入ってお茶でも飲んでいく?もう少しあなたと話がしたいわ」
僕は首を振った。「有り難う。僕も君と話がしたい。でも今日は帰るよ。どうしてかはわからないけど、今日は帰った方がいいと思う。君と僕は一度にあまり沢山のことを話さない方がいいような気がする。どうしてだろう?」
彼女は看板の細かい字を読む時のような目つきでじっと僕を見ていた。「うまく説明できない。でもそういう気がする」と僕は言った。「話すことが沢山ある時は少しずつ話すのがいちばんいいんだ。そう思う。あるいは間違っているかもしれないけれど」
彼女は僕の言ったことについて少し考えていた。それから考えるのをあきらめた。「おやすみなさい」と言って彼女は静かにドアを閉めた。
「ねえ」と僕は声をかけてみた。ドアが十五センチほど開いて、彼女が顔を見せた。「また近いうちに君を誘ってみていいかな」と僕は聞いてみた。
彼女はドアに手をかけたまま深く息を吸いこんだ。「たぶん」と彼女は言った。そしてまたドアが閉まった。
タクシーの運転手は退屈そうにスポーツ新聞を広げて読んでいた。僕が一人でシートに戻ってホテルの名前を言うと、彼はびっくりしたようだった。
「本当に帰っちゃうんですか?」と彼は言った。「てっきりあとはいいから帰ってくれって言われると思ったんだけどね。雰囲気的に。普通は大体そうなるんだけど」
「だろうね」と僕は同意した。
「長年こういう商売やってると、まず勘は外れないんだけどなあ」
「長年やってれば外れることもある。確率的に」
「そりゃそうだけど」と運転手はちょっと混乱したような声で言った。「でもお客さん、少し変わってるんじゃないかな」
「そうかな」と僕は言った。そんなに僕は変わっているのだろうか?
部屋に戻って顔を洗い、歯を磨いた。歯を磨きながら少し後悔したが、結局そのままぐっすりと寝てしまった。僕の後悔は大体いつもあまり長くは続かないのだ。
朝、まず第一に僕はフロントに電話をかけて、部屋の予約を三日延長した。問題はなかった。どうせ今の季節はシーズン・オフなのだ。それほど混んではいない。
それから新聞を買ってホテルの近くのダンキン・ドーナッツに入り、プレイン・マフインを二つ食べ、大きなカップにコーヒーを二杯飲んだ。ホテルの朝食なんて一日で飽きる。ダンキン・ドーナッツがいちばんだ。安いし、コーヒーもおかわりできる。
次にタクシーを拾って図書館に行った。札幌でいちばん大きい図書館に行ってくれと言うとちゃんと連れていってくれた。図書館で僕は彼女の教えてくれた週刊誌のバックナンバーを調べてみた。ドルフィン・ホテルの記事が出ているのは十月二十日号だった。僕はその部分のコピーをとって、近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら腰を据えてそれを読んでみた。
わかりにくい記事だった。きちんと理解するまでに、何度も読みなおさなくてはならなかった。記者はわかりやすく書こうと精一杯努力していたが、その努力も事態の複雑さの前には歯が立たなかったようだ。おそろしくいりくんでいるのだ。でもまあじっくりと読めばおおよその輸郭はわかってきた。記事のタイトルは「札幌の土地疑惑。黒い手がうごめく都市再開発」とあった。空から写した完成間近のドルフィン・ホテルの写真も載っていた。
要約するとこういうことだった。まずだいいちに札幌市の一部で大規模な土地の買い占めが進行していた。二年ばかりの間に水面下で土地の名義が異様に動いた。地価が意味もなくホットになってきた。記者がその情報を得て調査を始めた。調べてみると、土地は様々な会社によって買われていたが、その大方は名前だけのベーパー・カンパニーだった。会社の登録はしてある。税金も払っている。しかしオフィスもないし、社員もいない。そしてそのべーパー・カンパニーは別のぺーパー・カンパニーに繋がっていた。実に巧妙に名義上の土地転がしが行われていた。二千万で売られた土地が六千万で転売され、それが二億で売られていた。様々なぺーパー・カンパニーの迷路をひとつひとつ辛抱強く辿っていくと、行き先はひとつだった。B産業という不動産を扱う会社だった。これはリアルな会社だった。赤坂に大きなファッショナブルな本社ビルを持っている。そのB産業はおおっぴらにではないがA総業というコングロマリットに繋がっていた。鉄道やらホテル・チェーンやら映画会社や食品チェーンやらデパートやら雑誌、クレジット金融から損害保険までを配下に収める巨大企業だった。A総業は政界にも巨大なパイプを持っていた。記者はもっと先まで追求した。するともっと面白いことがわかった。B産業の買い占めていた地域は札幌市が再開発計画を進めていた土地だったのだ。地下鉄の建設や、庁舎の移転や、そういう公共投資がその地域に行われることになっていた。その資金の大半は国から出ることになっていた。政府と北海道と札幌市が話しあって再開発計画を練り、最終決定に達した。場所や規模や予算、等々。ところがいざ蓋を開けてみると、その決定した地域の土地はこの何年かの間に誰かの手でしっかりと買い占められていた。情報がA総業に流れたのだ。そして計画が最終的に決定する以前から、土地の買い占めが地下深く進行していた。つまりその最終的な決定は最初から政治的に決定されていたのだ。
  その買い占めの尖兵がドルフィン・ホテルだった。まずドルフィン・ホテルが一等地を確保した。その巨大ホテルがA総業のベッド・クオーターの役割を果たすことになった。それはその地域のリーダー的役割を担っていた。人目を引き、人の流れを変え、その地域の変貌の象徴となった。すべては綿密な計画のもとに進行した。それが高度資本主義というものだ。最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得ることになる。誰が悪いというのではない。資本投下というのはそういうものを内包した行為なのだ。資本投下をするものはその投下額に応じた有効性を要求する。中古車を買う人間がタイヤを蹴ったりエンジンを調べてみたりするように、一千億の資本を投下するものはその投下の有効性を細かく検討するし、ある場合には操作もする。その世界ではフェアネスなんて何の意味も持たない。そんなことをいちいち考えるには投下資本の額が大きすぎるのだ。
 強引なこともやる。
 たとえば、土地買収に応じないものがいるとする。昔から商売をしている履物屋が買収に応じない。するとどこからともなくこわもての人々が出てくる。巨大な企業というのはちゃんとそういうルートだって持っているのだ。そういう会社は政治家から、小説家から、ロック・シンガーから、やくざまで、息のかかったものを一応全部抱えている。日本刀を持ったこわもての連中が押し掛ける。警察もそういう事件にはあまり熱心には手を出さない。警察の一番上まで話はちゃんと通っているのだ。それは腐敗ですらない。システムなのだ。それが資本投下というものだ。もちろん昔から多かれ少なかれそういうことはあった。昔と違うのはその資本の網が比べ物にならぬほど細かくなり、タフになったことだった。巨大コンピュータがそれを可能にした。そして世界に存在するあらゆる事物と事象がその網の中にすっぽりと収まっていた。集約と細分化によって資本というものは一種の概念にまで昇華されていた。それは極言するなら、宗教的行為でさえあった。人々は資本の有するダイナミズムを崇めた。その神話性を崇めた。東京の地価を崇め、ぴかぴかと光るポルシェの象徴するものを崇めた。それ以外にはこの世界にはもう神話など残されてはいなかったからだ。
 それが高度資本主義社会というものだった。気にいるといらざるとにかかわらず、我々はそういう社会に生きていた。善悪という基準も細分化された。ソフィスティケートされたのだ。善の中にもファッショナブルな善と、非ファプショナブルな善があった。悪の中にもファッショナブルな悪と、非ファッショナブルな悪があった。ファッショナブルな善の中にもフォーマルなものがあり、カジュアルなものがあり、ヒップなものがあり、クールなものがあり、トレンディーなものがあり、スノッブなものがあった。組み合わせも楽しめた。ミッソーのセーターに、トゥルッサルディのパンツをはき、ポリーニの靴を履くみたいに、複雑なスタイルを楽しむことができた。そういう世界では、哲学はどんどん経営理論に似ていった。哲学は時代のダイナミズムに近接するのだ。
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。それなりに良い時代だった。ソフィスティケートされた哲学のもとで、いったい誰が警官に石を投げるだろう?いったい誰が進んで催涙ガスを浴びるだろう?それが現在なのだ。隅か
ら隅まで網が張られている。網の外にはまた別の網がある。何処にも行けない。石を投げれば、それはワープして自分のところに戻ってくる。本当にそうなのだ。
記者は全力を傾けてその疑惑を追求していた。しかし彼がどれだけ声をあげたところで、いや上げれば上げるほど、その記事は微妙に説得力を失っていた。訴えかける力を持たなかった。彼にはわかっていないのだ。それは疑惑ですらないのだ。それは高度資本主義の当然のプロセスなのだ。そんなことはみんな知っているのだ。だから誰もそんなものには注意を払わないのだ。巨大資本が不正に情報を入手して土地を買い占め、あるいは政治的決定を強要し、その末端でやくざが小さな履物店主を脅したり、流行らない小さなホテルの経営者を殴ったからといって誰がそんなことを気にするだろう?そういうことなのだ。時代は流砂の如く流れつづけるのだ。我々の立っている場所は、我々の立っていた場所ではないのだ。
それは立派な記事だったと思う。よく調べてあったし、正義感に溢れていた。でもトレンデイーではなかった。
僕はその記事のコピーをポケットに突っ込み、コーヒーをもう一杯飲んだ。
僕はいるかホテルの支配人のことを考えた。生まれながらに失敗の影に覆われたあの不幸な男のことを。彼にこの時代が乗り切れるわけがなかったのだ。「トレンディーじゃないんだ」と僕は声に出して言ってみた。
ウェイトレスが通りかかって、変な顔で僕を見た。僕はタクシーを拾ってホテルに帰った。

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