ダンス・ダンス・ダンス

ユミヨシさんは夕方の六時半にやってきた。彼女はやはり制服のままだったが、ブラウスが違うかたちのものになっていた。そして今度はちゃんと着替えや洗面用具や化粧品をいれた小さなビニールのバッグを持っていた。
「いつかばれる」と僕は言った。
「大丈夫よ。私は抜け目ないもの」とユミヨシさんは言って、にっこり笑い、ブレザー・コートを脱いで椅子の背中にかけた。そして僕らはソファの上で抱き合った。
「ねえ、今日ずっとあなたのことを考えていたの」と彼女は言った。「そしてこう思ったの。私が毎日昼間このホテルで働いて、夜になったらこうしてあなたの部屋にそっと忍びこんできて、二人で抱きあって眠って、そして朝になったらまたそのまま働きに出ていけたら素敵だろうなって」
「職住近接」と僕は笑って言った。「しかし残念ながら僕にはいつまでもここに泊まりつづけるような経済的余裕はないし、それにそんなこと毎日やってたら幾らなんでもいつかばれる」
ユミヨシさんは不服そうに膝の上で指をぱちぱちと小さく何度か鳴らした。 「世の中は上手くいかないわね」
「実に」と僕は言った。
「でもあと何日かはここに泊まってるんでしょう?」
「そうだね。たぶんそうなると思う」
「じゃあその何日かでいいわよ。二人でこのホテルの中で暮らしましょう」
それから彼女は服を脱いで、またひとつひとつきちんと畳んだ。癖なのだ。腕時計と眼鏡を取って、テーブルの上に置いた。それから僕らは一時間くらいかけてセックスをした。僕も彼女もさすがにくたくたになったが、でもそれはとても心地良い疲労感だった。
「すごい」とユミヨシさんは言った。そしてまた僕の腕の中でうとうとと眠ってしまった。リラックスしているのだ。僕はシャワーを浴び、冷蔵庫からビールを出して一人で飲んだ。そして椅子に座ってユミヨシさんの寝顔を眺めていた。彼女はとても気持ち良さそうに眠っていた。
八時前に彼女は目を覚ましておなかが減ったと言った。我々はルーム・サービスのメニューを点検し、マカロニ・グラタンとサンドイッチを注文した。彼女は服と靴をクローゼットの中に隠し、ボーイがドァをノックすると、さっとバスルームに隠れた。ボーイがテーブルの上に料理を並べて出ていくと、僕はバスルームのドアを小さくノックした。
我々はグラタンとサンドイッチを半分ずつ食ベ、ビールを飲んだ。そしてこれから先の話をした。僕は東京から札幌に越してくると言った。
「東京にいても仕方ないんだ。もういる意味もない」と僕は言った。「今日の昼間ずっとそのことを考えてたんだ。ここに落ち着くことにする。そして僕にできそうな仕事を探してみる。ここにいれば君と会えるからね」
「とどまるのね?」と彼女は言った。
「そうだよ、とどまるんだ」と僕は言った。引っ越しの荷物は大した量ではないだろう。レコードや本や台所用品、その程度だ。スバルに乗せてフェリーで運べるだろう。大きなものは売るか捨てるかして、また買い直せばいいのだ。ベッドも冷蔵庫もそろそろ買いかえてもいい頃合だった。だいたいにおいて、僕は物を長く大事に使いすぎる。
「札幌でアパートを借りる。そして新しい生活を始める。君は来たい時にそこに来て、泊まっていけばいい。しばらくそういう風にしてやっていってみよう。僕らはたぶんうまくやれると思う。僕は現実を取り戻し、君はリラックスする。そしてふたりでそこにとどまる」
ユミヨシさんは微笑んで僕にくちづけした。「素敵」と彼女は言った。
「その先のことは僕にもわからない。でも良い予感はある」と僕は言った。
「先のことは誰にもわからない」と彼女は言った。「でも今はすごく素敵よ。すごく最高に素敵」
僕はもう一度ルーム・サービスに電話をして、アイス・ぺール一杯分の氷を注文した。彼女はまたバスルームに隠れた。氷が来ると、僕は昼間街で買っておいたウォッカのハーフ・ボトルとトマトジュースを出し、ブラディー・マリーをふたつ作った。レモン・スライスとリー・アンド・ベリン・ソースはなかったけれど、とりあえずはブラディー・マリーだった。僕らはそれでささやかに乾杯した。背景音楽が必要だったので、枕元の有線放送のスイッチをいれ、チャンネルを「ボピュラー音楽」というのにあわせた。マントヴァーニオーケストラが『魅惑の宵』を麗々しく奏でていた。言うことない、と僕は思った。
「あなたって気がきくのね」とユミヨシさんが感心して言った。「実はさっきからブラディー・マリーが飲めるといいなあってずっと思っていたの。どうしてちゃんとわかるんだろう?」
「耳を澄ませば求めているものの声が聞こえる。目をこらせば求められているものの姿が見える」
「標語みたい」と彼女は言った。
「標語じゃない。生きる姿勢を言葉にしただけだ」と僕は言った。
「あなた、標語作りの専門家になればいいんだわ」とくすくす笑いながらユミヨシさんは言った。
我々は三杯ずつブラディー・マリーを飲み、それからまた裸になって抱き合い、優しく交わった。我々はとても充足していた。彼女を抱いているときに一度、あのごとごとごとごとといういるかホテルの旧式エレベーターの震える音が聞こえたような気がした。そう、ここが僕の結び目なんだ、と僕は思った。僕はここに含まれているのだ。そして何にも増して、これは現実なのだ。大丈夫、僕はもう何処にも行かない。僕はしっかりと繋がっている。僕は結び目を回復し、そして現実と繋がっているのだ。僕がそれを求め、羊男がそれを繋げるのだ。十二時になって、我々は眠った。
ユミヨシさんが僕の体を揺すって起こした。「ねえ、起きてよ」と彼女は僕の耳もとで囁いていた。彼女はいつの間にかきちんと制服を着ていた。あたりはまだ暗く、僕の頭の半分はまだ温かい泥のような無意識の領域に留まっていた。ベッドサイド・ライトが点いていた。枕もとの時計は三時過ぎを指している。何かまずいことがおこったのだと僕はまず思った。たぶん彼女がここに来ていることが上役にばれたのだろうと。ユミヨシさんはとても真剣な顔つきで僕の肩を掴んで揺さぶっているし、時刻は夜中の三時だった。それに彼女はきちんと服を着ている。そうとしか思えなかった。どうすればいいのかな、と僕は考えた。でも僕の思考はそこから先に進まなかった。
「起きてよ。お願い、起きて」と彼女は小さな声で言った。
「起きてる」と僕は言った。「何が起こったんだ?」
「いいから早く起きて服を着て」
僕は何も聞かずに素早く服を着た。Tシャッを頭からかぶり、ブルージーンズをはき、スニーカーをはき、ウィンドブレーカーを着てジッパーを首の上まで上げた。一分もかからなかった。僕が服を着てしまうと、ユミヨシさんは僕の手を取ってドアのところに連れていった。そして小さくドアを開けた。ほんの二センチか三センチだけ。
「見てょ」と彼女は言った。僕はその隙間から外を覗いた。廊下は真っ暗だった。何も見えない。ゼリーのような濃厚で冷やかな闇だ。手をさしだしたらそのまま吸い込まれてしまいそうなほど闇は深く、暗かった。そしてあのいつもの臭いがした。黴臭い、古びた紙の臭い。古い時間の深淵から吹きこんでくる風の匂い。
「またあの闇が来たのよ」と彼女は僕の耳もとで囁いた。
僕は彼女の腰に手を回してそっと抱き寄せた。「大丈夫だよ。怖がることはない。ここは僕の為の世界なんだ。悪いことは起こらない。最初に君が僕にこの闇のことを話した。だから僕らは知り合ったんだ」でも僕には確信が抱けなかった。僕はどうしようもなく怖かった。それはどんな理屈も通じない根源的な恐怖だった。それは僕の遺伝子に刻みこまれ、太古の時代から営々と伝えられた恐怖だった。闇というものはどのような存在理由があったとしてもやはり怖くおぞましいものなのだ。それは人をすっぽりと呑み込み、その存在を歪め、引き裂き、消しさってしまうかもしれないものなのだ。いったい誰が完全な闇の中で確信を抱けるだろう?闇の存在理由ーーいったい誰がそんなものを信じるだろう?闇の中ではあらゆるものが容易にねじ曲がり、転換し、消滅してしまうのだ。そして闇の論理である虚無が全てを覆ってしまうのだ。
「大丈夫だよ、何も怖がることはない」と僕は言った。でもそれは自分に言いきかせるための言葉だった。
「どうするの?」とユミヨシさんは訊いた。
「二人で先の方に行ってみよう」と僕は言った。「僕は二人の人物に会う目的でこのホテルに戻ってきたんだ。一人は君で、もう一人はその相手だ。彼はこの闇の奥の方にいる。そしてそこで僕を待ってるんだ」
「あの部屋にいた人ね?」
「そうだよ。彼だ」
「でも怖いわ。本当にすごく怖い」とユミヨシさんは言った。彼女の声は震えてうわずっていた。仕方無い、僕だって怖いのだ。
僕は彼女の瞼にそっと唇をつけた。「怖くない。今度は僕が一緒にいる。ずっと手を握りあっていよう。手を放さなければ大丈夫だよ。どんなことがあっても放しちゃ駄目だよ。じっとくっついているんだ」
僕は部屋の中に戻って、バッグの中から前もって用意しておいたペンライトとビックのライターを出し、ウィンドブレーカーのポケットに突っ込んだ。そしてゆっくりとドアを開け、ユミヨシさんの手を取って廊下に足を踏み出した。
「どっちに行くの?」と彼女が訊いた。
「右だよ」と僕は言った。「いつも右なんだ。決まってるんだ」
僕はペンライトで足元を照らしながら廊下を歩いた。暗闇の中で以前に感じた通り、それはドルフィン・ホテルの廊下ではなかった。もっともっと古い建物の廊下だった。赤いカーペットは擦り切れ、廊下はところどころへこんでいた。漆喰の壁には老人斑のような宿命的な染みがついていた。いるかホテルだ、と僕は思った。正確にそのままのいるかホテルではない。でもここはいるかホテルに似た何かなのだ。いるかホテル的な何かなのだ。しばらくまっすぐ進むと、廊下は前回と同じようにやはり右に折れていた。僕は廊下を曲がった。でもこの前とは何かが違っていた。光が見えないのだ。遠くのドアの隙間からこぼれていたあの蝋燭の微かな光が見えないのだ。僕は念のためにライトを消してみた。でも同じだった。そこに光はなかった。完璧な闇が狡猾な水のように音もなく僕らを包んだ。
ユミヨシさんは僕の手をぎゅっと強く握っていた。「光が見えない」と僕は言った。僕の声はひどく乾いていた。それは全然僕の声に聞こえなかった。「あそこのドアから光が見えたんだ。この前は」
「私の時もそうだったわ。あそこに見えた」
僕はその曲がり角でしばらく止まっていた。そして考えた。羊男の身に何が起こったんだろう?彼は眠っているのだろうか?いや、そうじゃない。彼はいつもあそこにいて灯をともしているはずなのだ。灯台のように。それが彼の役目なのだ。たとえ眠っていたとしても、光は常にそこにあるはずなのだ。なくてはならないのだ。嫌な予感がした。
「ねえ、このまま戻りましょう」とユミヨシさんは言った。「これはあまりにも暗すぎるわ。戻って、次の機会を待ちましょう。その方がいいわ。無理をしないで」
彼女の言いぶんには筋が通っていた。これはあまりにも暗すぎる。そして何かまずいことが起こっているような気がする。でも僕は引き返さなかった。
「いや、僕は心配なんだよ。あそこに行って何が起こったのか見届けてみたい。彼は何かの理由で僕を求めているのかもしれない。だから僕らをまたこの世界に繋げたんだよ」僕は再びペンライトを点けた。細く黄色い光の筋が闇の中をさっと走った。「行こう。じっと手を握ってるんだよ。僕は君を求めてるし、君は僕を求めてる。心配することはない。我々はとどまるんだ。何処にもいかない。ちゃんと戻る。心配しなくていい」
我々はゆっくりと足元を確かめながら一歩ずつ前に進んだ。暗闇の中でユミヨシさんのへア・リンスの微かな匂いが感じられた。そしてその匂いは僕の鋭く尖った神経を甘く浸した。彼女の手は小さく温かく硬かった。僕らは暗闇の中で繋がっていた。
羊男のいた部屋はすぐにわかった。そこだけドアが開いていて、その隙間からひやりとした黴臭い空気がこぼれ出ていたからだ。僕はそのドアをそっとノックしてみた。それは最初の時と同じように不自然なくらい大きく響いた。まるで巨大な耳の中の巨大な増幅器官を叩いたみたいに。僕はこんこんこんと三度ドアをノックし、そして待った。二十秒か三十秒待った。でも反応はなかった。羊男はどうしたのだろう?彼はひょっとして死んでしまったのだろうか?そういえば、この前会った時、彼はひどく疲れて年老いているように見えた。
そのまま死んでしまったとしても不思議はないような気がした。彼はとても長く生きたのだ。でも彼だってやはり年老いる。そしていつかは死ぬのだ。他のみんなと同じように。そう思うと僕は急に不安になった。もし彼が死んでしまったら、誰がこの世界と僕とを結びつけておくのだろう?誰が僕を繋げてくれるのだろう?
僕はドアを開け、彼女の手を引いてそっと部屋の中に入り、ベンライトで床を照らしてみた。部屋の中の様子はこの前見た時と全く同じだった。古い本が床じゅうに所狭しと積み上げられ、小さなテーブルがあり、その上に粗末な燭台代わりの皿が置いてあった。蝋燭は五センチほど残して消えていた。僕はポケットからライターを出してそれに火を灯し、ベンライトを消してウィンドブレーカーのポケットにしまった。
部屋の何処にも羊男の姿は見えなかった。
しまったんだ、と僕は思った。
「ここにいったい誰がいたの?」とユミヨシさんが訊いた。
「羊男」と僕は答えた。「羊男がこの世界の管理をしているんだ。ここが結び目で、彼が僕のためにいろんなものを繋げている。電話の配電盤と同じようにね。彼は羊の毛皮を着て、ずっと昔から生きつづけてる。そしてここに住みついている。隠れてるんだ」
「何から隠れているの?」
「何からだろう?戦争から、文明から、法律から、システムから……、羊男的じゃないありとあらゆるものから」
「でも彼はいなくなってしまったのね?」
僕は肯いた。僕が肯くと、壁の上の誇張された影が大きくぐらりと揺れた。 「そう、いなくなってしまった。どうしてだろう。いなくてはならないのに」僕は世界の端に立っているような気がした。古代人が考えた世界の端。何もかもが滝になって奈落の底に落下しているような、世界の端だ。そこの突端に我々は立っている。二人きりで。我々の前には何もない。暗黒の虚無が広がっているだけだ。部屋の空気は骨に染みるように冷たかった。我々はお互いの手のひらからかろうじて温かみを取り合っていた。
「彼はもう死んでしまったのかもしれない」と僕は言った。
「暗いところで悪いことを考えちゃだめよ。もっと物事を明るく考えるのよ」とユミヨシさんは言った。「どこかに買い物に出かけているだけかもしれないでしょう?
蝋燭のストックが切れたのかもしれない」とユミヨシさんは言った。
「あるいは所得税の払い戻しを受取りに行ってるのかもしれない」と僕は言った。そして僕
はライトで彼女の顔を照らした。彼女のくちもとが少しだけ微笑んでいた。僕はライトを消し、薄暗い蝋燭の光の中で彼女の体を抱き寄せた。「ねえ、休みの日には二人でいろんなところに行こう」
「もちろんよ」と彼女は言った。
「僕のスバルを持ってくる。中古だし、年式も古いけど、いい車なんだ。気に入ってる。僕はマセラテイにも乗った。でも正直言って僕のスバルの方がずっといい」
「もちろん」
「エアコンもついてるし、カー・ステレオだってついてる」
「言うことないみたい」
「言うことないんだ」と僕は言った。「それに乗っていろんなところに行こう。そして二人でいろんなものを見たい」
「当然な考えね」
僕らはしばらく抱き合ってから体を離し、僕はまたライトをつけた。彼女は身をかがめて床の上の薄い本を一冊取り上げた。それは『ヨークシャー種緬羊の品種改良の研究』というパンフレットだった。表紙は茶色く変色し、その上に白い埃が牛乳の膜のように積もっていた。
「そこにあるのは全部羊についての本だよ」と僕は言った。「昔のドルフィン・ホテルの一部は羊についての資料室になっていたんだ。支配人の父親が羊の研究家だったんだ。それがここに集めてある。羊男がそのあとを継いで管理していたんだ。もう何の役にも立たない。誰もこんなもの今さら読まない。でも羊男は取っておいたんだ。たぶんそれはここの場所にとって大事なものだったんだろうね」
ユミヨシさんは僕のライトを取ってそのパンフレットを開き、壁にもたれてそれを読んだ。僕は壁の上の自分の影を見ながらぼんやりと羊男について考えていた。彼はいったい何処に消えてしまったんだろう、と。それから急にひどく嫌な予感がした。心臓が喉もとまでせりあがってきた。何かが間違っている。何かまずいことが持ちあがろうとしている。いったい何だろう?僕はその何かに意識を集中した。それからはっと気づいた。駄目だ、いけない、と僕は思った。僕とユミヨシさんはいつの間にか手を離している。手を離しちゃいけないんだ、絶対に。一瞬のうちに体中の毛穴から汗が吹きだした。僕は急いで手をのばしてユミヨシさんの手首を掴もうとした。でもその時はもう遅かった。僕が手をのばすのとまったく同時に彼女の体はすっと壁に吸い込まれてしまっていた。キキがあの死の部屋の壁に吸いこまれた時と同じように。ユミヨシさんの体はまるで流砂に呑まれるように一瞬にして消えてしまった。彼女の姿が消え、ベンライトの光も消えた。
「ユミヨシさん!」と僕は大声で呼んだ。
誰も答えなかった。沈黙と冷気が一体となって部屋を支配していた。闇が一 段階深まったように感じられた。
「ユミヨシさん!」と僕はもう一度叫んだ。
「ねえ、簡単よ」と壁の向こうからユミヨシさんのくぐもった声が聞こえた。 「本当に簡単。壁を抜けたらすぐこっちに来られるわよ」
「違うんだ」と僕は怒鳴った。「簡単そうに見える。でもそっちに行っちゃうと、もう戻れないんだよ。君にはそれがわかってないんだ。そこは違うんだ。そこは現実じゃないんだよ。それはそちらの世界なんだ。こちらの世界とは違うところなんだ」
彼女は返事をしなかった。また深い沈黙が部屋に満ちた。まるで海の底にいるように沈黙が僕の体を重く圧していた。ユミヨシさんは消えてしまったのだ。どこまで手をのばしても彼女には届かないのだ。僕と彼女とのあいだにはあの壁がたちはだかっているのだ。ひどすぎる、と僕は思った。無力感。ひどすぎる。僕とユミヨシさんはこちら側にいなくちゃならないんだ。僕はそのためにこれまで努力してきたのだ。僕はそのために複雑なステップを踏みながらここまでやってきたのだ。
でも考えている余裕はなかった。ぐずぐずしている暇はないのだ。僕はユミヨシさんを追って壁にむかって足を踏み出した。そうする以外に方法はなかった。だって僕はユミヨシさんを愛していたのだ。そしてキキの時と同じように僕は壁を抜けた。前と同じだった。不透明な空気の層。ざらりとした硬質な感触。水のような冷やかさ。時間が揺らぎ、連続性がねじ曲げられ、重力が震えた。太古の記憶が時の深淵の中から蒸気のように立ちあがっているのが感じられた。それは僕の遺伝子なのだ。僕は自分の肉の中に進化のたかぶりを感じた。
僕はその複雑に絡み合った巨大な自分自身のDNAを越えた。地球が膨らみ、そして冷えて縮んだ。洞窟の中に羊が潜んでいた。海は巨大な思念であり、その表面に音もなく雨が降っていた。顔のない人々が波打ち際に立って沖を見つめていた。終りのない時間が巨大な糸玉となって空に浮かんでいるのが見えた。虚無が人々を呑み、より巨大な虚無がその虚無を呑んだ。人々の肉が溶け、白骨が現れ、それも塵となって風に吹きとぱされた。非常に完全に死んでいる、と誰かが言った。かっこう、と誰かが言った。業の肉は分解し、はじけ飛び、そしてまたひとつに凝結した。
その混乱とカオスの空気の層を抜けると、僕は裸でベッドの中にいた。あたりは真っ暗だった。漆黒の闇というのではない。でも何も見えなかった。僕は一人だった。手をのばしたが、隣りには誰もいなかった。僕は孤独だった。僕はまた一人ぼっちで世界の端に取り残されたのだ。「ユミヨシさん!」と僕は声を限りに叫んだ。でも実際には叫び声は出てこなかった。乾いた息が洩れただけだった。僕はもう一度叫ぼうとしたが、そのときぱちんという音が聞こえ、フロア・スタンドが点いた。部屋がさっと明るくなった。
そしてユミヨシさんはそこにいた。彼女は白いブラウスとスカートに黒い靴という格好でソファに座り、優しく微笑みながら僕を見ていた。ライティング・デスクの椅子の背にはライト・ブルーのブレザー・コートが彼女の分身のようにかかっていた。僕の体をこわばらせていた力が、ねじをゆるめるようにゆっくり少しずつその力をゆるめていった。僕は自分が右手でぎゅっとシーツを握りしめていたことに気づいた。僕はシーツから手を放し、顔の汗を拭った。ここはこちら側なんだろうか、と僕は思った。この光は本物の光なんだろうか?
「ねえ、ユミヨシさん」と僕はかすれた声で言った。
「なあに?」
「君は本当にそこにいるの?」
「もちろん」と彼女は言った。
「何処にも消えてないんだね?」
「消えてない。そんなに簡単に人は消えないのょ」
「夢を見てた」と僕は言った。
「知ってるわ。じっとあなたのことを見てたの。あなたが眠って夢を見て私 の名前を呼んでるのを見てたの。真っ暗な中で。ねえ、何かを真剣に見ようとすれば、真っ暗な中でもちゃんと見えるものなのね」
僕は時計を見た。四時少し前だった。夜明け前の小さな時間。思いが深まり屈曲する時間。僕の体は冷えて、まだ固くこわばっていた。あれは本当に夢だったんだろうか?あの闇の中で羊男は消え、そしてユミヨシさんも消えた。僕はその時の行き場のない絶望的な孤独感をはっきりと思い出すことができた。ユミヨシさんの手の感触を思い出すこともできた。それはまだ僕の中にしっかりと残っていた。それは現実以上にリアルだった。現実はまだ十分なリアリティーを取り戻してはいなかった。
「ねえ、ユミヨシさん」と僕は言った。
「なあに?」
「どうして服を着てるの?」
「服を着てあなたを見ていたかったの」と彼女は言った。「なんとなく」
「もう一度脱いでくれないかな?」と僕は訊いた。僕は確かめたかったのだ。彼女がちゃんここにいるということを。そしてこれがこちらの世界なんだということを。
「もちろん」と彼女は言った。彼女は時計を外してテーブルの上に置いた。靴を脱いで床に揃えた。ブラウスのボタンをひとつずつ外し、ストッキングを脱ぎ、スカートを脱ぎ、それからきちんと畳んだ。眼鏡をとって、いつものようにかたんという音を立ててテーブルに置いた。そして裸足で音もなく床を横切り、毛布をそっと持ち上げて僕のとなりに入ってきた。僕は彼女をしっかりと抱き寄せた。彼女の体は温かく、滑らかだった。そしてきちんと現実を持っていた。
「消えてない」と僕は言った。
「もちろん」と彼女は言った。「言ったでしょう、そんなに簡単に人は消えないのよ」そうだろうか、と僕は彼女を抱きしめながら思った。いや、どんなことだって起こり得るんだ、と僕は思った。この世界は脆く、そして危ういのだ。この世界ではあらゆることが簡単に起こり得るのだ。そしてあの部屋にあった白骨はまだ一つ残っているのだ。あれは羊男の骨だったのだろうか?それとも別の誰かの死が僕のために用意されているのだろうか?いやあるいはあの白骨は僕自身のものかもしれない。それはあの遠く薄暗い部屋で僕の死をじっと待ちつづけているのかもしれない。僕は遠くでいるかホテルの音を聞いた。まるで遠くから風に乗って聞こえてくる夜汽車の音のように。エレベーターがごとごとごとごとという音を立てながら上り、そして止まった。誰かが廊下を歩いていた。誰かがドアを開け、誰かがドアを閉めた。いるかホテルだ。僕にはそれがわかる。何もかもが軋み、何もかもが古びた音を立てた。僕はそこに含まれていた。誰かが僕のために涙を流していた。僕が泣けないもののために誰かが涙を流しているのだ。
僕はユミヨシさんの瞼に唇をつけた。
ユミヨシさんは僕の腕の中でぐっすりと眠った。僕は眠ることができなかった。僕の体の中には一片の眠りも存在しなかった。まるで干あがった井戸のように僕は目覚めていた。僕は彼女の体をつつみこむようにそっと抱きつづけていた。時々声を出さずに泣いたた。僕は失われたもののために泣き、まだ失われていないもののために泣いた。でも実際にはほんの少し泣いただけだった。ユミヨシさんの体は柔らかく、そして僕の腕の中で温かく時を刻んでいた。時間が現実を刻んでいた。やがて静かに夜が明けた。僕は顔を上げて、枕もとの目覚まし時計の針が現実の時間にあわせてゆっくり回転するのをじっと見ていた。少しずつ少しずつそれは前に進んでいた。僕の腕の内側にユミヨシさんの息がかかって、その部分だけが温かく湿っていた。
現実だ、と僕は思った。僕はここにとどまるのだ。
やがて時計の針は七時を指し、夏の朝の光が窓から差し込んで、部屋の床にほんの少しだけ歪んだ四角い図形を描いた。ユミヨシさんはぐっすりと眠っていた。僕は静かに彼女の髪を上げて耳を出し、そこにそっと唇をあてた。なんて言えばいいのかな、と僕はそのまま三分か四分くらい考えていた。いろんな言い方がある。様々な可能性があり、表現がある。上手く声が出るだろうか?僕
のメッセージは上手く現実の空気を震わせることができるだろうか?いくつかの文句を僕は口の中で呟いてみた。そしてその中からいちばんシンプルなものを選んだ。
「ユミヨシさん、朝だ」と僕は囁いた。

———连载完毕,再次感谢FOX提供本文电子版,请大家继续支持村上春树的森林———

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