ダンス・ダンス・ダンス

五反田君がマセラティを海に沈めた三日後に僕はユキに電話をかけた。僕は正直なところ誰とも話をしたくなかった。でもユキとだけは話さないわけにはいかなかった。彼女は無力で、一人ぼっちなのだ。子供なのだ。彼女を庇うことのできる人間は僕しかいないのだ。そして何よりも、彼女は生きているのだ。僕には彼女を生かしつづける責務があった。少なくとも僕はそんな風に感じた。
箱根の家にユキはいなかった。アメが電話に出て、娘は一昨日に赤坂のアパートに行ってしまったと言った。アメは眠いところを起こされたようなひどくもったりとした喋りかたをした。彼女はあまり喋らなかったし、その方が僕にとっても好都合だった。僕は赤坂に電話をかけた。ユキは電話のそばにいたらしくすぐに受話器を取った。
「もう箱根にはいなくていいの?」と僕は訊いた。
「わからないわ。でもしばらく一人になりたかったの。何のかの言っても、ママは大人でしょう?私がいなくてもちゃんとやれるわよ。私は少し自分のことを考えたかったの。これからどうするかとか、そういうことを。そろそろそういうことを真剣に考えるべき時期だと思ったの」
「そうかもしれないな」と僕は同意した。
「新聞で読んだわ。あなたのお友達、死んだのね」
「そう、呪われたマセラテイだ。君の言う通りだった」
ユキは黙っていた。沈黙が水のように僕の耳を浸した。僕は受話器を右の耳から左の耳に移し変えた。
「御飯でも食べにいかないか?」と僕は言った。「どうせろくでもないものを食べてるんだろう?二人で少しはましなものを食べよう。僕も実はこの何日かあまりものを食べてないんだ。一人でいると食欲が湧いてこない」
「二時に人と会う約束があるんだけど、その前だったらいいわ」
僕は時計を見た。十一時過ぎだった。
「いいよ。今から支度をして迎えに行く。三十分でそちらに着く」と僕は言った。
僕は服を着替え、冷蔵庫からオレンジ・ジュースを出して飲み、車の鍵と財布をポケットに入れた。そして「さて」と思った。でも何かを忘れているような気がした。そう、髭を剃り忘れているのだ。僕は洗面所に行って、丁寧に髭を剃った。そして鏡を見ながら、まだ二十代だといっても通用するだろうか、と考えてみた。するかもしれない。でも僕が二十代に見えたって見えなくたって、そんなことおそらく誰も気にもしないだろうな、と思った。どうでもいいことなのだ。それから僕はもう一度歯を磨いた。
外は良い天気だった。夏がもうそこまで来ていた。雨さえ降らなければとても感じの良い季節だ。僕は半袖のシャツに薄いコットンのズボンをはき、サングラスをかけ、ユキのマンションまでスバルを走らせた。ロ笛まで吹いた。
かっこう、と僕は思った。
夏だ。
僕は車を運転しながら林間学校のことを思い出した。林間学校では三時に昼寝の時間があった。でも僕はとても昼寝なんかできなかった。さあ眠りなさいと言われて眠れるわけがないじゃないか、と僕は思った。でも大抵の人間はぐっすりと眠っていた。僕は一時間ずっと天井を見ていた。ずっと天井を見ていると、天井が独立した世界みたいに思えてくる。そこに行けばこことはまったく違う世界に入り込めるような気がする。価値の転換した上下逆の世界。『鏡の国のアリス』みたいに。僕はずっとそんなことを考えていた。だから僕が林間学校で思い出せるのは天井のことだけだ。かっこう。
後ろのセドリックがクラクションを三回鳴らした。信号が青に変わっていた。落ち着けよ、と僕は思った。急いだって、それほど立派な場所に行けるわけでもないだろう?僕はゆっくりと車を出した。
とにかく夏だ。
僕がマンションの玄関のベルを押すと、ユキはすぐに下に降りてきた。彼女は上品なプリント地の半袖のワンピースにサンダルをはき、深い青色の革のショルダー・バッグを肩にかけていた。
「今日はシックななりをしてるね」と僕は言った。
「二時から人に会うって言ったでしょう?」と彼女は言った。
「とてもよく似合うよ。品がいい」と僕は言った。「大人になったみたいに見える」
彼女は微笑んだだけで何も言わなかった。
僕らは近くのレストランに入って、スープとスパゲッィのサーモン・ソースとすずきとサラダというランチを食べた。まだ十二時になっていなかったから店はすいていたし、味もまともだった。十二時をすぎてサラリーマンがどっと街に繰り出す頃に僕らは店を出て、車に乗った。
「どこかに行く?」と僕は訊いた。
「どこにもいかない。ただぐるぐるとその辺を回っていて」とユキは言った。
「反社会的行為だ。ガソリンの無駄づかいだ」と僕は言った。でも彼女はとりあわなかった。聞こえないふりをしていた。まあいいさ、と僕は思った。どうせもともとひどい街なんだ。もう少し空気が汚れたからといって、もう少し交通が混雑したからと言って、誰がそんなこと気にするだろう?
ユキはカー・ステレオのボタンを押した。中にはトーキング・へッズのテープが入っていた。たぶん『フェア・オブミュージプク』。いったいいつ入れたんだろう?いろんなことが記憶から欠落している。
「私、家庭教師につくことにしたの」と彼女は言った。「それで今日その人に会うの。女の人。パパがみつけてきてくれたの。勉強がしたくなったってパパに言ったら、あの人あくる日にはちゃんとみつけてくれた。きちんとした良い人だって。変な話だけど、あの映画見てたら何だか勉強したくなったの」
「あの映画?」と僕は聞き返した。「『片想い』のこと?」
「そうよ。あれよ」と言ってユキは少し赤くなった。「馬鹿みたいだとは思うわよ、自分でも。でもとにかくあの映画を見たあと急に勉強したくなったの。たぶんあなたのお友達が先生の役をやってるのを見たせいだと思う。あの人、見てる時は馬鹿みたいだと思ったけど、でも何か訴えるところがあるみたいね。才能があったのかしら」
「そうだね。ある種の才能があった。それは確かだ」
「うん」
「でももちろんあれは演技でありフィクションだ。現実とは違う。それはわかるね?」
「知ってる」
「歯医者の役も上手い。とても手際が良い。でもそれは演技なんだ。手際がよく見えるだけなんだ。イメージだ。本当に何かをやるというのは惨めに混乱して骨の折れることだよ。意味のない部分が多すぎるしね。でも何かをしたくなるっていうのはいいことだ。そういうものがないと上手く生きていけない。五反田君もそれを聞いたら喜ぶだろうね」
「彼に会ったの?」
「会ったよ」と僕は言った。「会って話をした。ずいぶん長く話をしたな。とても正直に話をした。そしてそのまま死んでしまった。僕と話して、それからすぐに海にマセラティを放り込んだんだ」
「私のせいね?」
僕はゆっくりと頭を振った。「君のせいじゃない。誰のせいでもない。人が死ぬにはそれなりの理由がある。単純そうに見えても単純じゃない。根っこと同じだよ。上に出てる部分はちょっとでも、ひっぱっているとずるずる出てくる。人間の意識というものは深い闇の中で生きているんだ。入り組んでいて、複合的で……解析できない部分が多すぎる。本当の理由は本人にしかわからない。本人にだってわかってないかもしれないかもしれない」
彼はその出口の扉のノブにずっと手をかけていたんだよ、と僕は思った。
「でもあなたはそのことで私をきっと憎むわ」とユキは言った。
「憎んだりしない」と僕は言った。
「今は憎んでないにしても、きっと先になって憎むわ」
「先になっても憎まない。僕はそんな風に人を憎んだりはしない」
「たとえ憎まないにしても、でもきっと何かは消えてしまうのよ」と彼女は小さな声で言った。「本当よ」
僕はちらりと彼女の顔を見た。「不思議だな、君も五反田君とまったく同じことを言ってる」
「そう?」
「そう。彼も何かが消えるのをずっと気にしていた。でもね、何をそんなに気にする?どんなものでもいつかは消えるんだ。我々はみんな移動して生きてるんだ。僕らのまわりにある大抵のものは僕らの移動にあわせてみんないつか消えていく。それはどうしようもないことなんだ。消えるべき時がくれば消える。そして消える時が来るまでは消えないんだよ。たとえば君は成長していく。あと二年もしたら、その素敵なワンピースだってサイズがあわなくなる。トーキング・へッズも古臭く感じるようになるかもしれない。そして僕とドライブなんてしたいとは思わなくなるだろう。それは仕方ないことなんだ。流れのままに身をまかせよう。考えたって仕方ないさ」
「でも私はずっとあなたのことを好きだと思うわ。それは時間とは関係ないことだと思う」
「そう言ってくれるのは嬉しいし、僕もそう思いたい」と僕は言った。「でも公平に言って、君は時間のことをまだあまりよく知らない。いろんなことを頭から決めてしまわない方がいい。時間というのは腐敗と同じなんだ。思いもよらないものが思いもよらない変わり方をする。誰にもわからない」
彼女は長い間黙っていた。テープのA面が終わって、オート・リターンした。
夏だ。街のどこに目をやっても夏が目についた。警官も高校生もバスの運転手もみんな半袖になっていた。ノースリーブで歩いている女の子だっていた。おい、ついこのあいだまで雪が降っていたんだぞ、と僕は思った。僕は雪の降りしきる中で彼女と二人で『へルプ・ミーロンダ』を唄っていたんだぞ。あれからまだたった二カ月半しか経っていないんだぞ。
「本当に私を憎まない?」
「もちろん」と僕は言った。「憎んだりしない。そんなことあるわけがない。
この不確実な世界にあって、それだけは確信をもって言える」
「絶対に?」
「絶対に。二五OOパーセントありえない」
彼女は微笑んだ。「それが聞きたかったの」
僕は肯いた。
「五反田君のことを好きだったんでしょう?」とユキが訊いた。
「好きだったよ」と僕は言った。そう言って、僕は突然声がつまった。目の奥に涙があふれた。でも僕はやっとのことでそれを押しとどめた。そして深呼吸をした。「会うたびに好きになっていった。そういうことってあまりないんだけどね。特に僕くらいの歳になってからはね」
「彼があの人を殺したの?」
僕はしばらくサングラス越しに初夏の街を眺めていた。「それは誰にもわからない。でもどちらでもよかったんだ」
彼はきっかけを持っていただけなんだ。
ユキは窓枠に頬杖をついて、トーキング・へッズを聴きながら外の景色を眺めていた。彼女は僕が最初に会ったときに比べて少しおとなっぽくなったように思えた。でも気のせいだろう。まだ二カ月半しか経ってないのだ。
夏だ、と僕は思った。
「これからどうするつもりなの?」とユキが訊いた。
「どうしたものかな」と僕は言った。「何も決めてないね。何をすればいいんだろう?でもいずれにせよ、もう一度札幌に戻るよ。明日か明後日にでも。札幌に戻ってやらなくちゃいけないことが残ってるんだ」
僕はユミヨシさんに会わなくてはならない。そして羊男にも。あそこには僕の為の場所があるのだ。僕はそこに含まれているのだ。そして誰かが僕の為に泣いているのだ。僕はもう一度そこに戻ってほどけた輪をしめなくてはならないのだ。
代々木八幡の駅の近くに来ると彼女はそこで降りると言った。「小田急線に乗っていくの」と彼女は言った。
「目的地まで車で送ってあげるよ。どうせ今日の午後は暇だから」と僕は言った。
彼女は微笑んだ。「ありがとう。でもいいの。けっこう遠くだし、電車の方が早いわ」
「変だ」と僕はサングラスを外して言った。「『ありがとう』って言った」
「別に言ったっていいでしょう?」
「もちろんいいよ」と僕は言った。
彼女は十秒か十五秒僕の顔をみた。とくに表情らしい表情は浮かべていなかった。奇妙に表情のない子なのだ。目の輝き方と唇の形がすこしずつ変わるだけだ。唇は幾分すぼめられ、目は鋭く、生気を含んでいた。その目は僕に夏の光を思わせた。鋭く水中に差し込んで屈曲し輝いて散るあの夏の光。
「ただ単に感動してるだけだよ」と僕は言った。
「変な人」とユキは言った。そして車を下り、ばたんとドアを閉めて、後ろも振り向かずに歩いて行ってしまった。僕はユキのほっそりした後ろ姿が人込みの中に消えていくのをじっと見送った。彼女の姿が見えなくなると、僕はとても哀しい気持ちになった。まるで失恋したみたいな気分だった。
僕は口笛でラビン・スプーンフルの『サマー・イン・ザ・シティー』を吹きながら表参道を通って青山通りまで行って紀ノ国屋で買い物をしようとした。しかし駐車場に車を入れかけたところで、そうだ、明日か明後日にはもう札幌に行くんだと思った。食事を作る必要もないし買い物する必要もないのだ。そう思うと僕は急に手持ち無沙汰になった。さしあたって何もやるべきことがない。
僕はもう一度あてもなく街をぐるりとまわり、それからアパートに戻った。アパートの部屋はひどくがらんとして見えた。やれやれ、と僕は思った。そしてベッドにごろんと横になって天井を眺めた。こういうのには名前がつけられるぜ、と僕は思った。喪失感、と僕は口に出して言ってみた。あまり感じの良い言葉ではなかった。
かっこう、とメイが言った。それはがらんとした部屋の中に大きく響きわたった。
僕はキキの夢を見た。それはたぶん夢だったのだろうと思う。でなければ夢に類する行為だ。「夢に類する行為」っていったい何だろう?僕にもわからない。でもそういうものがあるのだ。我々の意識の辺境には名づけようもない様々なものが存在する。
でも簡単に僕はそれを夢と呼ぶことにする。やはりその表現がいちばん実体に近いと思うから。
 

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