ダンス・ダンス・ダンス

翌日の朝、僕は駐車場にマセラテイの様子を見にいってみた。夜の間に悪戯をされたり、盗まれたりしてないか心配だったからだ。でも車は無事だった。
いつもスバルがある場所にマセラティが収まっているというのは、何かしら変なものだった。僕は車の中に入ってシートに身を沈めてみたが、やはりどうも落ち着かなかった。目が覚めたら隣に見たことのない女が寝ているというのと同じだった。素敵な女なのだけれど、それとは関係なく落ち着かない。何か緊張する。僕は何によらず物事に馴れるのに時間がかかる性格なのだ。
結局その日は僕は一度も車に乗らなかった。昼のあいだ街を散歩し、映画を見て、本を何冊か買った。夕方に五反田君から電話がかかってきた。彼は昨日の礼を言った。礼を言われるほどのことではない、と僕は言った。
「あの、ホノルルのことだけど」と彼は言った。「組織に問い合わせてみた。それでね、うん、確かにここからホノルルの女を予約することはできる。便利な世の中だ。まるで緑の窓口だね。スモーキングですか、ノンスモーキングですか?なんてね」
「まったく」
「それで、ジューンという子のことも聞いてみた。ジューンという子を前におたくで紹介してもらった知り合いがいて、とても良かったから試してみろって言うんだけど、その子を予約することはできるだろうかって。ジューンっていう名前の東南アジア系の女の子。調べるのにちょっと時間がかかった。本当はいちいちそんなことやってくれないんだけど、僕ならやってくれる。自慢じゃないけれど、お得意だから。無理がきくんだ。ちゃんと調べてくれた。ジューンていう子はたしかにいた。フィリピノだ。でも彼女は三カ月前にいなくなってる。もう働いてない」
「いなくなった?」と僕は聞き返した。「やめたっていうこと?」
「おい、よしてくれよ。いくらなんでもそこまでは調べてはくれない。コールガールなんてしょっちゆう出入りするんだ。いちいち追跡調査もしてられないでしょうが。彼女は辞めた、もうここにはいない、それだけだよ。残念ながら」
「三カ月前?」
「そう三カ月前」
いくら考えてみても結論は出てきそうになかった。僕は礼を言って電話を切った。そしてまた街を散歩した。
ジューンは三カ月前にいなくなっている。でもたしかに二週間前に彼女は僕と寝たのだ。そして電話番号まで書き残していった。誰も出ない電話の番号を。不思議だ、と僕は思った。これでコールガールが三人になった。キキとメイとジューン。みんな消えた。一人は殺され、二人は行方がわからない。みんなまるで壁に吸い込まれるみたいにすっとどこかに消えていく。そしてみんなそれぞれに僕と絡んでいる。彼女たちと僕の間には五反田君と牧村拓が存在している。
僕は喫茶店に入って手帳にボールベンで僕の回りの人間関係を図にして描いてみた。かなり複雑な関係だった。第一次大戦開戦直前の列強関係図みたいだ。
僕は半ば感心し、半ばうんざりしつつしばらくその図を眺めていたが、どれだけ眺めても何のアイデアも浮かんではこなかった。三人の消えた娼婦と一人の俳優と三人の芸術家と一人の美少女と神経症的なホテルのフロント係の女の子。どう好意的に見てもまともな交遊関係とは言えない。アガサ・クリスティーの小説みたいだった。「わかった、執事が犯人だ」と僕は言ってみたが、誰も笑わなかった。面白くない冗談なのだ。
正直なところこれ以上手も足も出なかった。どこまで糸をたぐっていっても、余計にもつれるだけなのだ。全然すっきりとしない。最初はキキとメイと五反田君のラインだけだった。それなのに今では牧村拓とジューンのラインまで加わっている。そしてキキとジューンはどこかで繋がっている。ジューンの残していった電話番号とキキの残していった電話番号は同一のものなのだ。コネクションがぐるりと回っている。
「これはむずかしいぜ、ワトソン君」と僕はテーブルの上の灰皿に向かって言った。もちろん灰皿は何も答えなかった。灰皿は頭がいいから、こういうことには一切関わり合いにならないようにしているのだ。灰皿もコーヒー・カップもシュガー・ボットも伝票も、みんな頭がいい。誰も返事をしない。聞こえないふりをしている。馬鹿なのは僕一人だけだ。いつも変なことと関わり合っている。そしていつもくたびれている。気持ちの良い春の宵に、デートする相手もいない。
僕はアパートに戻ってユミヨシさんに電話をかけてみた。でもユミヨシさんはいなかった。今日は早番であがりました、ということだった。スイミング・クラブに行く夜なのかもしれない。そして僕はいつものようにスイミング・クラブに嫉妬した。五反田君みたいな感じの良いハンサムな教師がユミヨシさんの手を取って泳ぎ方を優しく教えている光景に嫉妬した。僕はユミヨシさん一人の為に、札幌からカイロに到る世界中のスイミング・クラブを憎悪した。糞、と僕は思った。
「何もかも下らん。まるっきりの糞だ。ひからびた糞だ。純粋に吐き気がする」僕は五反田君の真似をして声に出してそう言ってみた。全然期待はしていなかったのだが、実際に声に出して言ってみると、不思議なことにそれで少し気分が良くなった。五反田君は宗教家になればいいのに、と僕は思った。朝と夕に彼がみんなを唱導するのだ。「何もかも下らん。まるっきりのひからびた糞です。純粋に吐き気がします」と。受けるかもしれない。
でもそれとは別にユミヨシさんにひどく会いたかった。僕は彼女のいささか神経症的な喋り方やぴりぴりとした身のこなしが懐かしかった。指先で眼鏡のブリッジを押さえる仕種や、するりと部屋に忍び込んでくるときの真剣な表情や、ブレザー・コートを脱いで僕の隣に座るときの格好が好きだった。そういう彼女の姿を思い浮かべると、僕は幾らかあたたかい気持ちになることができた。僕は彼女の中にある何かしら真っすぐなものにとても強く引かれていた。我々は二人でうまくやっていくことができるだろうか?彼女はホテルのフロントで働くことに喜びを見出していたし、週に何日か夜にスイミング・クラブに通っていた。僕は雪かき仕事をし、スバルと古いレコードを好み、きちんとした食事をすることにごくごくささやかな喜びのようなものを見出していた。そういう二人。うまく行くかもしれないし、行かないかもしれない。データが不足しすぎていて、予測というものがまったくつかない。
彼女は僕と一緒になると、やはりいつか傷つくことになるだろうか?別れた妻が予言したように、僕は関わり合いになる女性のすべてを結局は傷つけていくことになるのだろうか?僕は自分のことしか考えない人間だから、他人を好きになる資格なんてないのだろうか?
でもユミヨシさんのことを考えているうちに、僕は今からすぐ飛行機に乗って札幌に行きたくなってきた。そして彼女を抱き締め、データは不足しているかもしれないが、僕はとにかく君が好きだと言いたかった。でも、駄目だ。その前に結び目をきちんと整理しなくてはならない。中途半端なままで物事を放り出すことはできない。そんなことをしたら、その中途半端さを次の段階にまでずるずるとひきずっていくことになる。どこまで進んでもすべての事物が中途半端さの薄暗い影に染まることになる。そしてそれは僕の理想とする世界の有り方ではない。
問題はキキだ。そう、キキがすべての中心にいる。彼女は様々な形で僕とコンタクトをとろうとしている。札幌の映画館からホノルルのダウンタウンに到るまで、彼女は影のように僕の前をさっと横切っていく。そして彼女は僕に何かのメッセージを伝えようとしている。それは明らかだ。でもそのメッセージは余りにも暗示的で、僕にはそれを理解することができない。キキはいったい僕に何を求めているのだろう?僕はいったいどうすればいいのだろう?
でもどうすればいいのかは僕にはわかっていた。
とにかく待っていればい,いのだ。
何かがやってくるのを待てばいいのだ。いつもそうだった。手詰まりになったときには、慌てて動く必要はない。じっと待っていれば、何かが起こる。何かがやってくる。じっと目をこらして、薄明の中で何かが動き始めるのを待っていればいいのだ。僕は経験からそれを学んだ。それはいつか必ず動くのだ。もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。よろしい、ゆっくり待とう。
僕は何日かおきに五反田君と会って酒を飲んだり、食事をしたりした。しばらくすると彼と会うことは僕の習慣の一部になった。会う度に彼はスバルを借りっぱなしにしていることを詫びた。問題ない、気にしないでいい、と僕は言った。
「まだマセラテイは海に放り込んでいない?」と彼は訊いた。
「残念ながら海に行く暇がなくてね」と僕は言った。
僕と五反田君はバーのカウンターに並んでウォッカ・トニックを飲んでいた。僕より彼の方が少しだけ飲むぺースが早かった。
「でも、本当に放り込んだら気持ち良いだろうな」と彼はグラスの縁に唇を軽くつけたまま言った。
「確かに胸がすっとするだろうね」と僕は言った。「でもマセラテイがなくなってもすぐにフェラーリが来る」
「それもついでに放り込もう」と五反田君は言った。
「フェラーリの次は何だろう?」
「何だろうな。でもそんなにいっぱい放り込んだら、きっと保険会社が文句を言うだろうね」
「保険会社のことは気にしなくていい。もっと気を大きく持とう。どうせこれはみんな空想なんだ。二人で酒を飲んで空想しているだけだよ。君がよく出る低予算映画とは違うんだよ。空想には予算というものがないんだ。中産階級的な心配はこの際忘れた方がいい。細かいことは気にせずにどんどん派手にやろう。ランボルギーニだって、ポルシェだって、ジャガーだって、何だっていいんだよ。片っ端から放り込めばいいんだ。遠慮しなくていいよ。海は深くて広いんだ。何千台だって受け入れてくれる。想像力を駆使するんだよ、君」
彼は笑った。「君と話してると胸がすっとする」
「僕もすっとする。他人の車だし、他人の想像力だからね」と僕は言った。 「ところで最近奥さんとは上手くいってる?」
彼はウォッカ・トニックをすすり、そして肯いた。外は雨が降っていて、店はすいていた。僕ら二人の他には客がいなかった。バーテンダーはやることがないので酒瓶を磨いていた。「上手くいってるよ」と彼は静かに言った。そして唇を曲げて微笑んだ。「僕らは愛しあっている。僕らの愛は離婚によって確認され、深められた。どう?、ロマンテイックじゃない?」
「ロマンティックだ。失神しそうだ」彼はくすくす笑った。
「でも本当だよ」と彼は真顔で言った。
「知ってるよ」と僕は言った。
僕と五反田君は会うとだいたいそんな風に話をした。僕らは軽口を叩きながらかなり真剣に話しあった。それは絶え間なく冗談を必要とするくらい真剣な話だったのだ。その多くはあまり出来の良い冗談ではなかったけれど、それはとくに問題にはならなかった。とにかく冗談であればよかったのだ。それは冗談のための冗談にすぎなかった。我々は冗談という共通認識を必要としていただけだった。僕らがどれくらい真剣かというのは、我々自身にしかわからなかった。我々はどちらも三十四歳で、それは十三歳とはまた違った意味でとても難しい年齢だった。二人とも年を取るということの本当の意味を少しずつ認識しはじめていた。そして我々はそれに対してなにがしかのものを準備し始めなくてはならない時期にさしかかっていた。来るべき冬のあいだに体を温めてくれそうなものを確保しておくのだ。かれはそれを簡潔な言葉で表現した。
「愛」と彼は言った。「僕に必要なものはそれなんだ」
「感動的だ」と僕は言った。でも僕にだってやはりそれは必要だったのだ。
五反田君はしばらく黙っていた。彼は黙って愛について考えていた。僕もそれについて考えていた。僕はちょっとユミヨシさんのことを考えた。そして彼女があの雪の降る夜にブラディー・マリーを五杯か六杯飲んだことをふと思いだした。彼女はブラディー・マリーが好きなのだ。
「女なんて嫌というほドイツぱい寝た。もう要らない。何人寝たって同じだよ。やることは同じだもの」と五反田君は少しあとで言った。「愛が欲しい。
ねえ、大変なことを君に打ち明ける。僕が寝たいのは女房だけだ」
僕はぱちっと指を鳴らした。「すごい。まるで神の言葉みたいだね。光り輝いている。記者会見をやるべきだね。そして『私が寝たい相手は女房だけです』って宣言するんだ。みんな感動する。総理大臣に表彰されるかもしれない」
「いや、ノーベル平和賞だってもらえるんじゃないかな。なにしろ『私が寝たい相手は女房だけです』って世界にむかって宣言するんだぞ。普通の人間にちょっと出来ることじゃない」
「しかしノーベル賞をもらうとフロック・コートが必要になるな」
「なんだって買えばいい。全部経費で落ちる」
「素晴らしい。まさに神の言葉だ」
「受賞の挨拶をスウェーデンの王様の前でやる」と五反田君は言った。「皆様、私が今寝たい相手は女房だけです、ってね。感動の嵐だ。雪雲が割れて太陽が姿を見せる」
「氷が溶け、バイキングが平伏し、人魚姫の歌が聞こえる」
「感動的だ」
僕らはまた黙りこんで、しばらくそれぞれに愛について考えていた。愛については考えるべきことがいっぱいあった。ユミヨシさんを家に招待するときはウォッカとトマトジュースとリー&ペリン・ソースとレモンを用意しておかなくちゃな、と僕は思った。
「でも、あるいは君は賞なんて何ももらえないかもしれない」と僕は言った。「変質者だと思われるだけかもしれない」
五反田君はそれについてしばらく考えていた。そしてゆっくりと何度か肯いた。
「そうだな、それはあり得るね。僕の言ってることは性的反革命だ。激昂した群衆に蹴り殺されるかもしれない」と彼は言った。「そうなると僕は性的殉教者になる」
「性的殉教者になった最初の俳優になれる」
「でも死んだら二度と女房と寝られない」
「正論だ」と僕は言った。
そして僕らはまた黙ってしばらく酒を飲んだ。
そんな風に僕らは真剣な話をした。隣で我々の話を聞いていた人間がいたとしたら、冗談だと思っただろう。でも僕らはこのうえなく真剣だったのだ。
彼は暇があれば僕のところに電話をかけてきた。そして何処かの店に行くか、僕のアパーに来て食事をするか、あるいは彼のアパートに行くかした。そのようにして日々は流れた。僕は腹を決めて一切仕事をしなかった。仕事なんてもうどうでもよくなってしまった。僕がいなくたって、世の中はちゃんと進んでいくのだ。そして僕はじっと何かが起こるのを待った。
僕は牧村拓のところに余った金と旅行中に使った分の領収書を郵送した。すぐにフライデーから電話があった。もっと金をとってくれ、と彼は言った。
「先生もこれでは気が済まんとおっしゃってられますし、僕の方も困ってしまいますので」とライデーは言った。「ひとつここは僕に任せてくれませんか?
決してあなたにそのことで負担はおかけしませんから」
押し問答するのも面倒になったので、わかった、今回のことはとにかくそちらの気の済むようにしてくれ、と僕は言った。牧村拓はすぐに三十万円分の銀行小切手を送ってきた。中に領収書が入っていて、そこには『取材調査費』と書いてあった。僕は領収書にサインして印鑑を押し、郵送した。何だって経費で落ちるのだ。感動的な世界だ。
僕はその二十万円の小切手を額に入れて机の上に置いておいた。
連休がやってきて、去っていった。
僕はユミヨシさんと何度か電話で話をした。
どれくらいの時間話をするかは、彼女が決定した。長く話す時もあったし、「忙しいから」と言って簡単に切ってしまうこともあった。長い間じっと黙っていることもあれば、突然がちゃんと切ってしまうこともあった。でもとにかく電話をとおして、僕と彼女は話をすることができた。我々は少しずつデータを交換した。ある日彼女は自宅の電話番号を教えてくれた。これは確実な進歩だった。
彼女は週に二回、スイミング・スクールに通っていた。彼女がスイミング・スクールの話を持ち出す度に、僕の心は無垢な高校生のように震えたり傷ついたり暗くなったりした。僕は何度も彼女の水泳教師について質問してみようとした。どんな教師なのか、幾つくらいなのか、ハンサムなのか、彼女に親切すぎないか、等々。でもそれがうまく訊けなかった。彼女に僕の嫉妬を見破られそうで、怖かったのだ。「ねえ、あなたスイミング・スクールに嫉妬しているんでしょう?ああ、嫌だ、そういう人って大嫌い。スイミング・スクールに嫉妬する人なんて男として最低よ。私の言ってることわかる?本当に最低なのよ。あなたとなんか二度と会いたくないわ」そう言われるのが怖かったのだ。
だから僕はスイミング・スクールに関してはじっと口をつぐんで黙っていた。黙っていると僕の中でスイミング・スクール妄想がどんどん膨らんでいった。レッスンが終わったあとで、教師が彼女だけを残して特別レッスンをするのだ。教師はもちろん五反田君だった。彼はユミヨシさんの胸と腹に手をあててクロールの練習をさせた。彼の指は彼女の乳房を撫で、彼女の脚の付け根をさすった。でも気にしなくていい、と彼は言った。
「気にしなくていいよ」と彼は言った。「僕が寝たい相手は女房だけなんだ」
そして彼はユミヨシさんの手をとって、自分の勃起したペニスを握らせた。水中の勃起したペニス。まるで珊瑚みたいだ。ユミヨシさんはとてもうっとりしている。
「大丈夫」と五反田君は言った。「僕が寝たいのは女房だけなんだから」
スイミング・プール妄想。
馬鹿気てる。でも僕はそれを頭から追い払うことができなかった。僕はユミヨシさんに電話をかけるたびにしばらくその妄想に悩まされることになった。妄想はだんだん複雑化し、さまざまな人物が登場するようになった。キキやメイやユキが出てきた。ユミヨシさんの体を這う五反田君の指を見ているうちに、
いつのまにかユミヨシさんはキキに変わったりした。
「ねえ、私はとても平凡でありきたりの人間なのよ」とある日ユミヨシさんは言った。その夜彼女はひどく元気がなかった。「人と変わってるのは名前だけ。あとは何もないの。ただこうやってホテルのカウンターで毎日毎日働いて人生を無駄に磨り減らしていくだけ。私になんか電話しないで。私、長距離電話料金に値するような人間じゃないのよ」
「でも君はホテルで働くのが好きなんだろう?」
「ええ、それは好きよ。働くこと自体は苦痛でもなんでもない。でもね、時々ホテルに呑み込まれちゃうような気がすることがあるの。時々。そういう時、私っていったい何だろうと思うの。私なんてないも同じだわ。ホテルはちゃんとそこにあるの。でも私はそこにないの。私には私が見えないの。私は見失われているの」
「君は少しホテルのことを真剣に考えすぎるんじゃないかな」と僕は言った。 「ホテルはホテルであって、君は君だよ。僕はよく君のことを考えるし、時々ホテルのことを考える。でも一緒には考えない。君は君で、ホテルはポテルだ」
「知ってるわよ、それくらい。でも時々混乱しちゃうのよ。境界線が見えなくなっちゃうの。私という存在やら感覚やら私生活やらがホテルという宇宙の中にひきずりこまれて消えちゃうの」
「誰だってそうなんだよ。みんな何かにひきずりこまれて、境界線が見えなくなっちゃうんだ。君だけじゃない。僕だって同じだよ」と僕は言った。
「同じじゃないわよ、全然」とユミヨシさんは言った。
「そうだ。全然同じじゃない」と僕は言った。「でも君の気持ちはよくわかるし、君のことが好きだ。君の中にある何かが僕を引きつける」
ユミヨシさんはしばらく黙りこんでいた。電話的沈黙の中に彼女はいた。
「ねえ、私、あの暗闇がとても怖いの」と彼女は言った。「もう一度あれがやってきそうな気がするの」
電話口でユミヨシさんがしくしく泣きだす声が聞こえた。最初のうち僕はそれが何だかよくわからなかった。でもそれはどう考えてもすすり泣きだった。
「ねえ、ユミヨシさん」と僕は言った。「どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫に決まってるでしょう?ただ泣いてるだけよ。泣いちゃいけないの?」
「いや、別にいけなくないよ。心配しただけだよ」
「ねえ、少し黙っていて」
僕は言われたとおり黙っていた。僕がじっと黙っていると、ユミヨシさんはひとしきり泣くいてから電話を切った。
五月七日にユキから電話がかかってきた。
「帰ってきたわよ」と彼女は言った。「今からどこかに遊びにいかない?」
僕はマセラティに乗って赤坂のマンションまでユキを迎えに行った。ユキはマセラティを見ると顔をしかめた。
「この車どうしたの?」
「盗んだわけじゃない。泉に車を落としたらイザベル・アジャーニみたいなって泉の精が出てきて『今落としたのは金のマセラディですか、銀のBMWですか』って訊くから、いいえ僕の車は銅の中古のスバルですって答えたんだ。するとーー」
「下らない冗談はやめてょ」と彼女は真剣な顔で言った。「真面目に訊いてるのよ。本当にこれいったいどうしたのよ?」
「友達と一時的に交換したんだ」と僕は言った。「僕のスバルにどうしても乗りたいっていうから、取り替えた。その友達にもいろいろと理由があるんだ」
「友達?」
「そう。信じてくれないかもしれないけど、僕にも一人くらいは友達はいる」
彼女は車の助手席に乗って中をぐるっと見回した。そしてまた顔をしかめた。 「変な車」と彼女は吐き捨てるように言った。「馬鹿みたい」
「そういえば持ち主も同じようなことを言ってたね」と僕は言った。「表現は幾分違ったけど」
彼女は黙っていた。
僕はまた湘南方面に車を進めた。ユキはどこまでいってもずっと黙っていた。僕はスティーリー・ダンのテープを小さな音でかけながら、注意深くマセラテイを運転した。とても良い天気だった。僕はアロハ・シャッを着て、サングラスをかけていた。彼女は薄手のコットン・パンツにピンク色のラルフ・ローレンのポロシャツを着ていた。日焼けした肌にその色がとてもよく合っていた。まるでハワイにいるみたいな気分だった。僕の前には家畜運搬トラックがいて、豚たちが板張りの柵の隙間から僕らの乗ったマセラテイを赤い目でじっと見ていた。きっと豚にはスバルとマセラティの違いなんてわからないんだろうな、と僕は思った。豚は差異化というのがどういうことかなんて知らないのだ。キリンも知らないし、ウナギも知らない。
「ハワイはどうだった?」と僕は訊いてみた。
彼女は肩をすぼめた。
「お母さんとは上手くいった?」
彼女は肩をすぼめた。
「サーフィンは上手くなった?」
彼女は肩をすぼめた。
「すごく元気そうに見えるよ。日焼けがたまらなく魅力的だ。まるでカフェ・オ・レの精みたいに見える。背中にかっこいい羽をつけて、スプーンを肩にかつぐと似合いそうだよ。カフェ・オ・レの精。君がカフェ・オ・レの味方になったら、モカとブラジルとコロンビアとキリマンジャロが束になってかかってきても絶対かなわない。世界中の人間がこぞってカフェ・オ・レを飲む。世界中がカフェ・オ・レの精に魅了される。君の日焼けはそれくらい魅力的だ」
精一杯素直に賞賛したつもりだったが、まるで効果はなかった。彼女は肩をすぼめただけだった。あるいは逆効果だったのだろうか?
のだろうか?
「生理か何かなの?」
彼女は肩をすぼめた。
僕も肩をすぼめた。
「帰りたい」とユキは言った。「Uターンして東京に帰ろう」
「ここは東名高速だよ。たとえニキラウダといえどもここでUターンはできない」
「どこかで下りて」
僕は彼女の顔を見た。たしかに彼女はぐったりとしているように見えた。目に生気がなく、視線が澱んでいた。たぶん青白くなっているのだろうが、日焼けのせいで顔色の変化までは読みとれなかった。
「何処かで休んだ方がいいんじゃないかな」と僕は訊いてみた。
「いいのよ。休みたくなんかない。とにかく早く東京に戻りたい」とユキは言った。
僕は横浜の出口で下りて、そのまま東京まで戻ってきた。しばらく外に座っていたいとユキが言うので、彼女のマンションの近くの駐車場にマセラティを停め、乃木神社のベンチに二人でならんで座った。
「ごめんなさい」とユキは珍しく素直に謝った。「でもすごく気分が悪かったの。とても我慢できないくらい。あまりそういうことを言いたくなかったんでずっと我慢してたんだけど」
「我慢なんかすることなかったんだ。気にすることないさ。女の子にはそういうことはよくあるんだ。僕は馴れてる」
「そういうんじゃないったら!」とユキは怒鳴った。「そういうんじゃないのよ。それとはまた違うのよ。私が参っちゃったのはあの車のせい。あの車に乗っていたせいよ」
「でも、あのマセラテイのいったいどこがいけないんだろう?」と僕は訊いた。「決して悪い車じゃないよ。性能もいいし、乗り心地もいい。たしかに自分で金を出して買うにはいささか値段は高すぎると思うけどね」
「マセラテイ」と彼女は自分に言い聞かせるように言った。「でも車種が問題じゃないのよ。車種を問題にしてるんじゃないの。問題はあの車なのよ。あの車には何か嫌な雰囲気があるの。それが何というかーー私を圧迫するのよ。気持ちが悪くなるの。胸が締め付けられて、胃の中に変なものを押し込まれたような気分がするの。まるで綿屑を押しこまれたような感じ。あなたはあの車に乗っていてそういう風に感じたことはない?」
「ないと思うね」と僕は言った。「僕も確かにあの車には何かしら馴染めないものを感じる。でもそれは僕がたぶんスバルに馴れすぎたせいだと思うんだ。だから急に違う車に乗せられてもうまく順応できない。感情的なものだ。でもそれは君の言う圧迫感とはまた違うんだろうね?」
彼女は首を振った。「私の言ってるのは、そういうんじゃないの。とても特殊な感じなのよ」
「例のやつ?いつも君が感じるっていうーー」僕は霊感と言おうとしてやめた。違うな。何と言えばいいんだろう?精神的感応力?いずれにせよ、上手く口にはだせない。それはまるで卑猥なことばみたいに感じられる。
「そう、例のやつ。感じるの」とユキは静かに言った。
「どんな風に感じるんだろう?あの車について」と僕は訊いた。
ユキは肩をすぼめた。「それがきちんと正確に説明できれば簡単なんだけどね。でも駄目。具体的なイメージが浮かんでくるというわけじゃないから。私はぼんやりとしてつかみどころのない不透明な空気の固まりのようなものを感じるだけなの。重くて、とても嫌な感じがするもの。それが私を圧迫するの。何かとてもいけないこと」ユキは膝の上に両手を載せて、言葉を探した。「具体的なことはわからない。でもいけないこと。間違ったこと。歪んでいること。あの中にいるとすごく息苦しくなるの。とても空気が重い。まるで鉛の箱に押し込められて海の底に沈んでいくような気がするの。最初は思い過ごしだと思ったから我慢してたの。ただ私が旅行から帰ったばかりで疲れているせいなんだろうって。でもそうじゃないのよ。だんだんひどくなってくるの。あの車には二度と乗りたくない。あなたのスバルを返してもらって」
「呪われたマセラティ」と僕は言った。
「これ、冗談で言ってるんじゃないわよ。あなたもあの車にはあまり乗らないようにした方がいい」と彼女は真剣な顔つきで言った。
「不吉なマセラテイ」と僕は言った。そして微笑んだ。「わかった。君が冗談で言ってるんじゃないことはよくわかってる。あの車にはなるべく乗らないようにするよ。それともいっそのこと海に沈めちゃった方がいいのかな?」
「できたら」とユキは真面目な顔で言った。
ユキがショックから回復するまでの一時間ばかり、僕らは神社のベンチに座っていた。ユキは頬杖をついてじっと目を閉じていた。僕は目の前を行ったり来たりする人々の姿を見るともなく眺めていた。昼下がりの神社にやってくる人々は老人か、子供連れの母親か、首からカメラを下げた外人観光客くらいのものだった。どちらも大した数ではない。時々外まわりの営業マンらしい会社員がやってきてベンチに腰を下ろした。彼らは黒いスーツを着て、プラスティックの鞄を下げていた。そして焦点のあわないぼうっとした目つきで十分か十五分体を休めてからいずこへともなく去っていった。言うまでもなく、この時刻にはまともな人間はみんなちゃんと働いているのだ。まともな子供はみんなちゃんと学校に行っているのだ。
「お母さんはどうしたの?」と僕は尋ねた。「君と一緒に帰ってきたの?」
「うん」とユキは言った。「今は箱根の家にいるわ。あの片腕の人と一緒に。カトマンズとハワイの写真を整理しているの」
「君は箱根には帰らないの?」
「気がむいたら、そのうちにね。でもしばらくはここにいる。箱根に帰ってもとくにやることないから」
「純粋な好奇心から君にひとつ質問がある」と僕は言った。「君は箱根に帰ってもとくにやることがないから一人で東京にいると言う。しかし、ここにいて君はいったい何をやるんだろう?」
ユキは肩をすぼめた。「あなたと遊んでる」
しばらく、沈黙があった。宙吊りになったような、沈黙だった。
「素晴らしい」と僕は言った。「神の言葉みたいだ。単純で、しかも啓示に満ちている。ずっと二人で遊んでくらす。まるで楽園にいるみたいだ。僕と君とで色とりどりのバラを摘んだり、黄金の池にボートを浮かべて水遊びをしたり、柔らかな栗色の毛の子犬を洗ったりして日々を送る。腹が減ると上からパパイヤが落ちてくる。音楽が聴きたいなあと思うと天上からボーイ・ジョージが二人の為に歌いかけてくれる。素晴らしい。言うことない。でも現実的に考えれば、僕もそろそろ働かなきゃならない。いつまでも君と遊んで暮しているわけにはいかない。そして君のパパからお金をもらうわけにもいかない」
ユキは唇を歪めてしばらく僕の顔を見ていた。「あなたがパパやママからお金をもらいたくないというのはよくわかってるわよ。でもそんな風な意地のわるい言い方しないで。私だってこんな風にあなたをひっぱりまわしてるのが時々すごく辛くなるの。なんだかあなたの邪魔して、迷惑をかけてるみたいで。だからもしあなたがーー」
「金を受けとればってこと?」
「そうしてくれると少なくとも私は楽になれる」
「君にはわかってない」と僕は言った。「僕はたとえ何があろうと、仕事として君とつきあいたくない。個人的な友達としてつきあっていたい。君の結婚式で司会者に『こちらは新婦の十三歳のころに、新婦の職業的男性乳母をつとめておられました方です』なんて紹介されたくない。そんなことされたらみんなに『職業的男性乳母っていったい何ですか?』と質問されるに決まってるもの。それよりは『この方は新婦十三歳の時のボーイフレンドでした』と紹介されたい。その方がずっとかっこいい」
「馬鹿みたい」とユキは赤くなって言った。「私、結婚式なんてあげないもの」
「結構。僕だって結婚式なんか出たくない。下らないスピーチを聞かされて、作り損ねの煉瓦みたいなケーキを土産に持たされる。大嫌いだ。時間の消耗だ。自分のだってやらなかった。だからこれはあくまで譬え話だよ。僕が言いたいのはこういうことだ。友達は金では買えない。ましてや経費では買えない」
「そういうテーマで童話でも書いたら」
「素晴らしい」と僕は言って笑った。「実に素晴らしい。君はだんだん会話のコツを習得してきた。もう少し上達したら僕と二人で立派に漫才ができる」
ユキは肩をすぼめた。
「ねえ」と僕は咳払いをして言った。「真面目に話をしよう。もし君が僕と一緒に毎日遊んでいたいんなら、毎日遊んでもいい。別に仕事なんかしなくてもいい。どうせ下らない雪かき仕事だ。そんなのどうでもいいんだ。でもこれだけはひとつはっきりしている。金をもらって君とはつきあわない。ハワイのことは例外だ。あれは特別イベントだ。旅費もだしてもらった。女も買ってもらった。でもおかげで君の信用まで失いかけた。自分が嫌になった。もうああいうことは二度とやらない。おしまいだ。これからは僕のペースでやる。誰にも余計な口は出させない。金も出させない。僕はディック・ノースとも違うし、書生のフライデーとも違う。僕は僕で、誰にも雇われてはいない。つきあいたいから君とつきあう。君が僕と遊びたいんなら、僕は君と遊ぶ。君は金のことなんか考えることない」
「本当に私と遊んでくれるの?」とユキは足の爪のマニキュアを眺めながら言った。「構わないょ。僕も君も世間からずるずると落ちこぼれてるんだ。今更気にすることもないだろう。のんびり遊んで暮らせばいい」
「どうしてそんなに親切なの?」
「親切なわけじゃない」と僕は言った。「やりかけたことを途中で放り出せない性格なんだ。君が僕と遊びたいっていうのなら、気が済むまで遊べばいい。僕と君が札幌のホテルで巡り合ったのも何かの縁だ。やるからにはとことん気の済むまでやろう」
ユキはしばらくサンダルの先で地面に小さな図形を描いていた。四角い渦巻きのような図形だった。僕はそれを眺めていた。
「私はあなたに迷惑をかけてるのかしら?」とユキは言った。
僕はそれについて少し考えてみた。「かけてるかもしれない。でもそれは君が気にするべきことじゃない。それに結局のところ、僕だって君と一緒にいるのが好きだから一緒にいるんだ。何も義務的につきあっているわけじゃない。どうしてだろう?どうして僕は君といるのが好きなんだろう?歳もこんなに違うし、共通する話題だってろくにないのに?それはたぶん君が僕に何かを思い出させるからだろうな。僕の中にずっと埋もれていた感情を思い起こさせるんだ。僕が十三か十四か十五の頃に抱いていた感情だよ。もし僕が十五だったら君に宿命的に恋していただろう。それは前に言ったっけね?」
「言った」と彼女は言った。
「だからそういうことだよ」と僕は言った。「君と一緒にいると、時々そういう感情が戻ってくることがあるんだ。そしてずっと昔の雨の音やら、風の匂いをもう一度感じることができる。すぐそばに感じるんだよ。そういうのって悪くない。それがどれほど素敵なことかというのは君にもそのうちにわかる」
「今でもちゃんとわかるわよ、あなたの言ってることは」
「そう?」
「私だってこれまでにいろんなものをなくしてきたもの」とユキは言った。
「じゃあ話は早い」と僕は言った。
それから十分ほど彼女は黙っていた。僕はまた神社の中の人々の姿を眺めていた。「私にはあなたの他にきちんと話をできる人がいないの」とユキは言った。「本当よ。だからあなたといない時は、殆ど誰とも話をしないの」
「ディック・ノースはどうだった?」
ユキは舌を出して品の悪い仕種をした。「とてつもない馬鹿よ、あれは」
「ある意味ではそうかもしれない。でもある意味ではそうじゃない。決して悪い男じゃない。君もそのことは理解するべきだと思うよ。片腕しかないのにそこらの連中よりずっとよくやっているし、よくやっているわりに押し付けがましいところがない。そういう人間ってそれほど多くないんだ。そりゃ君のお母さんに比べれば、スケールも小さいかもしれない。だってそんなにないかもしれない。でも彼は君のお母さんのことを真剣に考えている。たぶん愛してもいるだろう。信用できる人間だよ。料理も上手い。親切だ」
「そうかもしれないけど、馬鹿」
僕はそれ以上は何も言わなかった。ユキにはユキの立場があり、感情があるのだ。
ディック・ノーズについての話は結局それでおしまいだった。僕らはハワイのイノセントな太陽や波や風やピナ・コラーダについてしばらく話した。少しおなかが減ってきたとユキが言うので、近くのフルーツ・パーラーに入ってフルーツ・パフェとパンケーキを食べた。それから地下鉄に乗って映画を見に行った。
その次の週にデイック・ノースが死んだ。

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