ダンス・ダンス・ダンス

ハワイ。
それからの何日かは平和な日々が続いた。楽園的とまでは言えないにしても、まあ平和な日々だった。僕はジューンの来訪を丁重に断った。風邪をひいたみたいで熱がある、咳も出る(こほんこほん)、しばらくはとてもその気になれないと思う、と僕は言った。そして車代にと言ってまた十ドル札を渡した。それはいけないわね、もしよくなったらここに電話ちょうだいねと彼女は言って、シャープ・ベンシルをバッグから出し、ドアに電話番号を書いた。「バイ」と彼女は言って腰を振りながら帰っていった。
僕は何度かユキを母親のところに連れていった。そして僕は片腕の詩人ディプッ・ノースと二人でビーチを散歩したり、プールで泳いだりした。彼はけっこう上手く泳ぐこともできた。ユキと母親はその間二人きりで話をしていた。彼女たちがどんなことを話していたのか、僕は知らない。ユキはそれについては何も言わなかったし、僕も別に聞かなかった。僕はレンタカーを借りて彼女をマカハまで送り届け、ディック・ノースと世問話をしたり泳いだりサーファーを眺めたりビールを飲んで小便したりし、また彼女をホノルルに連れて帰ってくるだけだった。
一度ディック・ノースがロバート・フロストの詩を朗読するのを聞いた。詩の内容まではもちろんわからなかったけれど、なかなか上手い朗読だった。リズムが美しく、情感がこもっていた。現像したばかりのまだ濡れているアメの写真を見たこともある。ハワイの人々の顔を写した写真だった。何でもない普通のポートレイトなのだが、彼女が写すとどの顔もいきいきとして、生命の核とでもいうべきものを浮かび上がらせていた。南国の島に生きる人々の素直な優しさや、下品さや、ひやりとするような酷薄さや、生きる喜び、写真から直接に伝わってきた。パワフルで、なおかつ静かな写真だった。才能、と僕は思った。「僕とも違うし、あなたとも違う」とディック・ノースは言った。そのとおりだ。見るだけでわかる。
僕がユキの面倒を見ているようにディック・ノースはアメの面倒を見ていた。でももちろん彼の方が遥かに本格的だった。彼が掃除をし、洗擢をし、料理を作り、買い物をし、詩を朗読し、冗談を言い、煙草の火を消してまわり、歯を磨いたかと尋ね、タンパックスを補充し(一度僕は彼の買い物に同行したのだ)、写真をファイルし、タイブライターを使ってきちんとした彼女の作品目録を作った。彼はそれを全部片腕でやっていたのだ。それだけやったあとで、自分の創作にむけるための時間が彼に残されているとは、僕にはとても思えなかっ
た。かわいそうな男だ、と僕は思った。でも考えてみたら、僕だって彼に同情できるような立場にはなかった。ユキの面倒を見るのと引き換えに父親に飛行機代とホテル代を出してもらい、その上女まで買ってもらっている。どう見てもどっこいどっこいだ。
母親の家を訪問しない日には、僕らはサーフィンの練習をしたり、泳いだり、ただ何をするともなくビーチに寝転んだり、買い物をしたり、レンタカーを借りて島のあちこちをまわったりした。夜になると僕らは散歩をし、映画を見て、ハレクラニかロイャル・ハワイアンのガーデンバーでピナ・コラーダを飲んだ。僕は暇にまかせていろんな料理を作った。我々はリラックスし、指先まで綺麗に日焼けした。ユキはヒルトンのブティックでトロピカルな花柄の新しいビキニを買ったが、それを身につけるとハワイで生まれて育った少女のように見えた。サーフィンの腕もかなり上達して、僕がとても捕まえられないような小さな波を上手に乗りこなした。ストーンズのテーブを何本か買って、毎日繰り返し聴いていた。僕が飲み物を買いにいったりする時にユキをひとりでビーチに残していくと、いろんな男が彼女に話しかけてきた。でもユキは英語が話せなかったから、そういう男たちを一○○パーセント無視していた。僕が帰ってくると彼らはみんな「失礼」と言って(あるいはもっとひどいことを言って)去っていった。彼女は黒く、美しく、健康だった。そしてとてもリラックスして毎日を楽しんでいた。
「ねえ、男の人ってそれほど強く女の人が欲しくなるものなの?」とある日ビーチに寝転んでいるときに突然ユキが僕に訊いた。
「そうだね。その強さに個人差はあるけれど、原理的に、肉体的に、男というのは女を欲しくなるものなんだ。セックスについてはだいたい知ってるよね?」
「だいたい知ってる」とユキは乾いた声で言った。
「性欲というものがあるんだ」と僕は説明した。「女の子と寝たいと思う。自然なことだよ。種族保持のためにーー」
「種族保持のことなんか聞いてないわよ。保健の時間みたいなこと言わないでよ。その性欲について聞いてるのよ。それがどういうものかについて」
「もし君が鳥だとする」と僕は言った。「そして空を飛ぶのがすごく気持ち良くて好きだとする。でもいろんな事情でたまにしか飛ぶことができない。そうだな、天候とか、風向きとか、あるいは季節とかによって、飛べたり飛べなかったりするんだ。でも飛べない日が続くと力も余るし、苛々してくる。自分が不当に貶められているような気がしてくる。どうして飛べないんだと腹も立ってくる。こういう感じわかる?」
「わかる」と彼女は言った。「いつもそんな風に感じてる」
「じゃあ、話が早い。それが性欲なんだ」
「この前、いつ空を飛んだの?その、つまり、この間のパパに買ってもらった女の人の前は?」
「先月の末だね」と僕は言った。
「楽しかった?」
僕は肯いた。
「いつも楽しいの?」
「そうとは限らない」と僕は言った。「不完全な生物が二人集まってやることだから、いつもいつも上手く行くとは限らない。失望することもある。気持ち良く飛んでいてうっかりして木にぶつかることもある」
「ふうん」とユキは一言った。そしてそれについてひとしきり考えていた。たぶん鳥が空を飛んでいて脇見か何かしてうっかり木にぶつかる光景を想像しているのだろう。僕はちょっと不安になった。そんな説明で本当に良かったんだろうか?ひょっとして僕は感じやすい年頃の女の子にまるっきり間違ったことを教えてしまったのではないだろうか?まあいいや、どうせ大さくなったらひとりでにわかることなのだ。
「でも歳とともにだんだん上手くいく確率は向上する」と僕は続けて説明した。」コツがわかってくる。天候や風向きを測れるようになってくる。しかし通常それに比例して性欲そのものは徐々に減少してくる。そういうものなんだ」
「惨め」とユキは首を振りながら言った。
「実に」と僕は言った。
ハワイ。
いったいこれでもう何日僕はこの島にいるんだろう?日にちの観念というものが、頭の中から完全に消滅していた。昨日の次が今日で、今日の次が明日だった。日が上って日が沈んで、月が上って月が沈んで、潮が満ちて、潮が退いた。僕は手帳をひっぱり出してカレンダーで日にちを勘定してみた。もうここに来て十日になっていた。四月もだんだん終わりに近づいている。僕がとりあえず休暇として決めた一カ月はもう過ぎ去ってしまっていた。どうしたものかな、と僕は思った。頭のねじがゆるんでいる。ゆるみきっている。サーフィンとピナ・コラーダの日々。それはそれで悪くない。でも僕はそもそもキキの行方を捜していたのだ。そこから全ては始まったのだ。僕はその筋を辿り、流れを追ってきた。なのにふと気がついたらいつのまにかこんな具合になってしまっている。奇妙な人々が次から次へと出てきて、物事の流れがすっかり変わってしまったのだ。そのおかげで僕は今こうして椰子の木陰でトロピカル・ドリンクを飲みながらカラパナを聴いている。何処かで流れを修正しなくてはならない。メイが死んだ。殺された。警察が来た。そうだ、メイの事件はいったいどうなったんだろう?文学と漁師は彼女の身元をつきとめることができただろうか?そして、五反田君はどうなっただろう?彼はひどく疲れて参っているように見えた。彼は僕と何を話したがっていたんだろう?とにかく全てが中途半端なまま放置してある。そんな風に放り出したままにしておくことはできない。そろそろ日本に帰らなくてはならない。
でも僕は腰を上げることができなかった。それはユキにとってと同じように僕にとってもやはり、久し振りに緊張から解放された日々であったし、彼女と同じように僕もそれを必要としていたのだ。僕は毎日殆ど何も考えなかった。肌を焼き、泳ぎ、ビールを飲み、ストーンズやブルース・スプリングスティーンを聴きながら島中をドライブした。月に照らされたビーチを散歩し、ホテルのバーで酒を飲んだ。
もちろんそんな生活がいつまでも続くわけがないことはよくわかっていた。でもただ単にそこから腰を上げることができなかったのだ。僕はリラックスし、ユキもリラックスしていた。彼女を見ていると僕の口から「さあ、もう帰ろうよ」とはなかなか言い出せなかったしそれが自分自身に対する言い訳にもなった。
二週間が経った。
僕はユキと一緒にドライブをしていた。タ暮れのダウンタウンだった。道路は渋滞していたが、とくにこれという急ぎの用事があるわけでもないから、我々はゆっくりと車を走らせながら道沿いの風景を眺めていた。ボルノ専門の映画館やら、スリフトショップやら、アオザイ用の生地を売っているヴェトナム人の洋服屋やら、中国食品店やら、古本屋やら中古レコード店やらが延々と続いていた。どこかの店先では二人の老人がテーブルと椅子を持ち出して碁を打っていた。いつものホノルルのダウンタウンだった。街角のところどころとろんとした目をした男が何をするともなく立っていた。面白い町だ。安くて美味い店もある。でも女の子が一人で歩くのには適さない。
ダウンタウンを外れて港に近付くと、貿易会社の倉庫やオフィスが増えてくる。町並みもどことなくがらんとして、不愛想になる。会社が退けて帰宅を急ぐ人々がバスを待ち、コーヒーショップはところどころ字の抜けたネオンを灯している。
『E.T.』をもう一度見たい、とユキが言った。
いいよ、夕食のあとで見にいこう、と僕は言った。
それから彼女は『 E.T.』について話しはじめた。あなたがE.T.みたいだとよかったのに、と彼女は言った。そしてひとさし指の先で僕の額に軽く触れた。
「駄目だよ、そんなことしてもそこは治らない」と僕は言った。
ユキはくすくす笑った。
その時だった。
その時突然何かが僕を打った。頭の中でカチンという音を立てて何かが繋がった。何かが起こったのだ。でも何が起こったのかその瞬間僕には判断がつかなかった。
僕は殆ど反射的にブレーキを踏んだ。後ろのカマロが何度も鋭く警笛を鳴らし、通り過ぎるときに窓から僕に罵声を浴びせかけた。そうだ、僕は何かを見たのだ。今そこで、とても大事な物を。
「ねえ、どうしたのよ、急に?あぶないじゃない」とユキが一言った。たぶんそう言ったんだと思う。
でも僕は何も聞いていなかった。キキだ、と僕は思った。間違いない、僕は今そこでキキを見かけたのだ。このホノルルのダウンタウンで。どうしてこんなところにいるのかはわからない。でもあれはキキだったのだ。僕は彼女とすれちがったのだ。僕の車の脇を、手を伸ばせば触れることができそうな近くを、彼女は歩いて通り過ぎて行ったのだ。
「ねえ、窓を全部閉めてドアをロックするんだ。外に出るんじゃないよ。誰が声をかけても開けないで。すぐに戻る」僕はそう言って車を下りた。
「ちょっと待ってよ。嫌よ、一人でこんなところーー」
でも僕は構わずに道路を走った。途中で何人もの人にぶつかったが、そんなことをいちいち気にしている余裕はなかった。僕はキキをつかまえなくてはならないのだ。何のためにかはわからない。でも僕は彼女をつかまえて、話をしなくてはならないのだ。僕は人の流れに沿って二ブロックか三ブロック走った。走りながら僕は彼女の着ていた服を思い出した。ブルーのワンピースと白いショルダーバッグ。ずっと前方にブルーのワンピースと白いショルダーバッグが見えた。タ暮れの中で白いショルダーバッグが彼女の歩調にあわせて揺れていた。彼女はダウンタウンの賑やかな方に向かっていた。大通りに出ると急に通行人が増え、僕は上手く走れないようになった。ユキの三倍の体重はありそうな巨大な女が僕の行く手を塞いだ。それでも何とか少しずつ僕はキキとの間の距離を詰めていった。彼女はただ歩き続けていた。速くも遅くもない普通のスピードだった。後ろも振り返らず、脇見もせず、バスに乗る気配も見せず、ただただ真っ直ぐに歩いていた。すぐにでも追いつけそうな気がするのだけれど、でも不思議に距離はあまり詰まらなかった。信号は一度も彼女を止めなかった。まるでそうなることを計算して歩いているみたいに、信号はずっと青だった。僕は彼女を見失わないために車に礫かれそうになりながら一度赤信号を走って渡らなくてはならなかった。
僕があと二十メートルくらいに近づいたところで、彼女は突然角を左に曲がった。僕ももちろん後を追って左に折れた。人気のない狭い通りだった。あまりぱっとしない古いオフィス・ビルが両側に並び、道路には汚れたライトバンやピックアップ・トラックが駐車していた。通りには彼女の姿が見えなかった。僕は息を切らせながら、そこに立ち止まって目をこらした。おい、どうしたんだ、君はまた消えちゃったのか?でもキキは消えてはいなかった。彼女は大型のデリバリ・トラックの陰になって一瞬見えなかっただけだった。彼女は歩道の上を同じ調子で歩き続けていた。タ闇は刻々と深まっていたが、僕はその白いショルダ・バッグが腰のあたりで振り子のように規則正しく揺れているのをはっきりと見ることが出来た。
「キキ!」と僕は大声で叫んだ。
僕の声は彼女の耳に届いたようだった。彼女はちらりと僕の方を振り返った。キキだ、と僕は思った。もちろん僕らの間の距離は離れていたし、タ暮れで、街灯もろくに灯っていない暗い通りだった。でもそれがキキであることが僕には確信できた。間違いない。そして彼女は僕だということを知っていたのだ。彼女は僕に向かって微笑みかけさえしたのだ。
でもキキは立ち止まらなかった。彼女はちらりと振り返っただけだった。歩調も緩めなかった。彼女はそのまま歩き続け、通りに並んだオフィス・ビルのひとつに入っていった。僕は二十秒ほど遅れてその中に入った。でも遅すぎた。ポールのつきあたりにあるエレベーターの扉は既に閉まっていた。そして旧式の階数表示の針はゆっくりと回り始めていた。僕は息を整えながら、その針の行きつく先を睨んでいた。針はもどかしいほどゆっくりと回り、8という番号のところでびくりと震えてから止まった。そしてそれっきり動かなくなった。
僕はエレベーターのボタンを押したが、それから思い直して近くにあった階段を走って上がった。途中でバケツを下げたビルの管理人らしい白髪頭のサモアンにでくわした。僕はもう少しで彼を突き倒すところだった。
「おい、何処にいくんだ?」と彼は僕に訊いたが、「あとで」と僕は言って、そのまま階段を駆け上がった。ほこりっぽい臭いのする人気のないビルだった。しんとして、ばたばたという僕の靴音だけが嫌に大きく廊下に響いた。人のいる気配といいうものがまったくなかった。八階の廊下に出ると僕はまず左右を見渡してみた。でも何もなかった。誰もいなかった。廊下に沿ってこれという特徴のないビジネス・ライクなドアが七つか八つずらりと並んでいるだけだった。それぞれのドアには番号とオフィスの名札が取り付けられていた。
僕はドアにかかった名札をひとつひとつ読んでいった。でもそれらの名前は僕には何も語りかけてはこなかった。貿易会社や法律事務所や歯科医の治療室‐ーどの名札もひどく古ぼけて、汚れていた。名札に書かれた名前までが古ぼけて汚らしいように感じられた。それらのオフィスはどれも流行っているようには見受けられなかった。ぱっとしない通りの、ぱっとしないビルの、ぱっとしない階に並んだ、ぱっとしないオフィスだった。僕はもう一度ゆっくりと順番に名前をあたってみたが、そこにはキキに結び付くようなものは何ひとつみつけられなかった。僕は途方に暮れてじっとそこに立ちすくんだ。そして耳を澄ませた。何の物音もしなかった。ビルは廃墟のように静まりかえっていた。
それからその音が聞こえた。ハイヒールの踵がコツコツと硬い床を踏む音だった。その靴音は天井の高い人気のない廊下に異様と言ってもいいくらい大きくこだました。それはまるで太古の記憶のような重く乾いた響きを持っていた。その響きは僕の今の存在を少し揺るがせた。突然自分が、大昔に死んで風化し、ひからびてしまった巨大生物の迷宮のごとき体内を彷徨っているような気がした。僕は何かの加減で時の穴を抜けて、その空洞にすっぽりとはまりこんでしまったのだ。
靴音はあまりに大きく響いたので、それがどの方向から聞こえてくるのか、僕にはしばらく判断できなかった。でもそれは右手の廊下の端から聞こえてきた。僕はテニスシューズの靴音を殺して、足早にそちらに行ってみた。靴音は一番端のドアの奥から聞こえていた。ずいぶん速くから聞こえてくるような気がしたが、でもそれがそのドアの向こうであることは確かだった。ドアには名札がついていなかった。変だな、と僕は思った。さっき僕がドアを全部調べたときには、ちゃんとここには名札がかかっていたのだ。何のオフィスだったかは思いだせない。でもとにかくそこには何かしらの名札はかかっていた。間違いない。名札のないドアがあったら絶対に覚えている。
これはひょっとして夢なんじゃないか、と僕は思った。でも夢ではなかった。夢であるわけがない。何もかもがきちんと連続して続いている。ひとつひとつ順番を辿れる。僕はホノルルのダウンタウンにいて、キキを追ってここまで来たのだ。夢じゃない。現実だ。少し何がずれているような気はする。でも現実は現実だ。
僕はとにかくそのドアをノックしてみた。
僕がノックすると、靴音は止まった。最後の響きが空中に吸い込まれてしまうと、あたりはまたもとの完全な沈黙に覆われた。
僕は三十秒ほどそのままドアの前で待った。でも何も起こらなかった。靴音も止んだまま
僕はノブを握り、思いきってそっと回してみた。鍵はかかっていなかった。ノブは軽く回り、微かな軋んだ音を立ててドアが内側に開いた。中は暗く、微かに床磨きの洗剤の臭いがした。部屋の中はまったくのがらんどうだった。家具もなく、照明器具もなかった。僅かに暮れ残った光が部屋の中を淡いブルーに染めているだけだった。床には変色した新聞紙が何枚か落ちていた。人の姿はなかった。
そしてまた靴音が聞こえた。正確に四歩、そしてまた沈黙。
音は右手の上方から聞こえたようだった。僕は部屋の一番奥まで行って、窓際にドアがひとつあるのをみつけた。そのドアにも鍵はかかっていなかった。ドアの奥は階段になっていた。僕はひやりとした金属の手すりを握りしめて、ゆっくりと足元を確かめながら真っ暗な階段を上ってみた。急な勾配の階段だった。たぶん普段は使わない非常用の階段か何かなのだろう。でもその階段の上から音が聞こえたことは確かだった。階段を上りきると、そこにまたドアがあった。電灯のスイッチを探してみたがそんなものは何処にも見当たらなかった。しかたなく僕は手探りでノブをさがしあて、それをまわしてドアを開けた。
部屋の中は暗かった。真っ暗というのではないのだが、でも中の様子はまったくと言ってもいいくらい何も見えなかった。でもそれがかなり広い空間であるということだけはわかった。たぶんベントハウスか屋根裏の倉庫のようなものなのだろう、と僕は想像した。窓はひとつもないか、あるいはあっても閉ざされていた。高い天井の真ん中に小さな明かり取りの窓のようなものが幾つか見えた。しかし月はまだ高く上がってはいなかったので、明かりと呼べそうなものはそこからは入ってこなかった。仄かな街灯の明かりが屈折に屈折を重ねた末にほんの少しだけその天窓から忍びこんでいたが、殆ど何の助けにもならなかった。
僕はそんな奇妙な闇の中に顔を差し出すようにして「キキ一」と一度呼んでみた。
しばらく待ったが、反応はなかった。
どうしたものかな、と僕は思った。中に入っていくには暗すぎる。手の打ちようがない。僕はそのまま少し待ってみることにした。そのうちに目が馴れるかもしれない。何か新たな展開があるかもしれない。
どれくらいの時間そこにじっとしていたのか、僕にはわからない。僕は耳を澄ませ、じっと闇の中を見つめていた。やがて何かの加減で、部屋にさしこむ光がほんの少しだけ明るさを増した。月が上がってきたのだろうか?あるいは街の光が明るく灯り始めたのだろうか?僕ぱドアのノブから手を離し、部屋の中央に向かって足下に注意しながらゆっくりと進んでみた。僕のゴムの靴底ががさっがさっという重い乾いた音を立てた。僕がさっき聞いた靴音と同じょうな、奥行きとひろがりの混濁した奇妙に非現実的な響さ方だった。
「キキ!」と僕はもう一度呼んでみた。返事はない。
最初に直観的に感じた通り、それはとても広い部屋だった。がらんとして、空気が静止していた。真ん中に立ってぐるりと見回すと、隅のほうに家具らしいものがぽつぽつと置いてあるのが見えた。はっきりとは見えない。でもその灰色の輪郭から想像すると、ソファや椅子やテーブルやチェストやそんなものであるらしかった。それは何となく奇妙な光景だった。家具が全然家具らしく見えないのだ。問題はそこに現実感が欠けていることだった。あまりにも部屋が広く、それに比べて家具の数が圧倒的に少ないのだ。遠心的に拡大された非現実の生活空間。
僕は何処かにキキの白いショルダーバッグが見えないものかと目を凝らした。彼女のブルーのワンピースはおそらくこの部屋の闇のなかに埋もれてしまうことだろう。でもあのショルダーバッグの白はわかるはずだ。彼女はどこかの椅子かソファに腰掛けているのかもしれない。
でもショルダーバッグは見えなかった。ソファや椅子の上には白い布のようなものがくしゃっとした形に置いてあるだけだった。たぶん麻布のカバーか何かだろうと僕は思った。でも近付いてみると、それは布なんかではなかった。骨だった。ソファの上には人骨がふたつ並んで座っていた。どちらも完全にきちんと揃った人骨だった。何ひとつ欠けていなかった。ひとつの人骨は大きく、もうひとつは小柄だった。彼らは生きている時の姿勢そのままにそこに腰掛けていた。大きな方の人骨は片腕をソファの背もたれにかけていた。小さな方は両手をきちんと膝の上に載せていた。二人は自分たちでも気がつかないうちに死んでしまって、そのまま肉体を失って骨だけになってしまったように見えた。彼らは微笑んでいるようにさえ見えた。そして驚くほどに白かった。
僕は恐怖を感じなかった。どうしてかはわからない。でも怖くはなかった。すべてはここに留まっているものなのだ、と僕は思った。留まって、動かないものなのだ。あの刑事が言ったように、骨は清潔で静かなものなのだ。彼らは非常に完全に死んでしまっているのだ。怖いことなんか何もない。
僕は部屋をぐるりと歩いてまわってみた。それぞれの椅子の上には、それぞれの人骨が座っていた。骨は全部で六体あった。ひとつを除けばどれも完全な人骨で、死んでから長い時間が経っていた。どれも死んだことに気がつきもしないようにごく自然な姿勢で椅子に座っていた。ひとつの人骨はTVを眺め続けていた。TVはもちろん切れていた。でも彼は(その大きさからたぶん男だろうと僕は想像した)そのブラウン管をじっと睨んでいた。視線はまっすぐそこに繋がっていた。虚無の映像に釘づけされた虚無の視線。テーブルに就いたまま死んでいるものもいた。テーブルにはまだ食器が載ったままだった。食器の中のものは、それがかって何であったにせよ、ただの白いほこりに変わっていた。ベッドに横になって死んでいるものもいた。その人骨だけが不完全だった。左腕が根本から無くなっていたのだ。
僕は目を閉じた。
これはいったい何なんだ? 君は僕に一体何を見せようとしているんだ。
また靴音が響いた。靴音は別の空間から聞こえていた。それがどの方向から聞こえてくるのかは、僕にはわからなかった。どこでもない方角から、どこでもない場所からそれは聞こえてくるように感じられた。でも見たところ、この部屋が行き止まりだった。この部屋からはどこにも抜けることはできなかった。足音はひとしきり続き、そして消えた。それに続く沈黙は息が詰まりそうなほど濃密だった。僕は手のひらで顔の汗を拭いた。キキはまた消えてしまったのだ。
僕は入ってきたドアを開けて外に出た。最後に振り返ると、青い闇の中に六体の骨がぼんやりと白く浮かんでいるのが見えた。彼らは今にもすっと起き上がって動きだしそうに見えた。僕がいなくなってしまうのを待ちつづけているように見えた。僕がいなくなるとさっとTVのスイッチがつさ、皿の中に温かい料理が戻ってくるのではないか、という気がした。僕は彼らの生活を邪魔しないように静かにそっとドアを閉めて階段を下り、もとのがらんどうのオフィスに戻った。オフィスはさっき見た時のままだった。誰の姿もなかった。床の同じ場所に古新聞が落ちているだけだった。
僕は窓際に寄って下を見下ろしてみた。街灯が白く光り、歩道に沿ってライトバンとピックアップ・トラックが前と同じように駐車していた。人影はなかった。日はすっかり暮れていた。
それから僕は埃のつもった窓枠の上にそれを見つけた。名刺くらいの大きさの紙片で、そこにはボールベンで電話番号とおぼしき七つの数字が書きつけてあった。紙もインクも変色しない程度には新しかった。番号にはまったく覚えがない。裏返してみたが、何も書かれていなかった。ただの白紙だ。
僕はその紙をポケットに入れて廊下に出た。
そして廊下に立って、またしばらくじっと耳を澄ませてみた。
でももう何の物音も聞こえなかった。
全ては死に絶えていた。線を切られてしまった電話機のような完璧な沈黙だった。どこにも行けない沈黙だった。僕はあきらめて階段を下りた。ホールに出てさっきの管理人を捜してみた。あそこがいったい何のオフィスなのか聞いてみようと思ったのだが、彼の姿は見当たらなかった。僕は少しそこで待ってみたのだが、そのうちにだんだんユキのことが心配になってきた。いったい俺はどれくらい彼女を置きっぱなしにしたんだろう、と僕は考えてみた。でもどれくらいの時間が経ったのか、僕には見当がつかなかった。二十分くらいだろうか?あるいは一時間くらいだろうか?薄闇がもう夜に変わっている。そしてあまり環境が良いとは言えない通りに彼女を置いてきてしまったのだ。とにかく引き上げようと僕は思った。これ以上ここにいても仕方ない。
僕はその通りの名前を覚えてから、急いで車を停めたところまで戻った。ユキは不貞腐れた顔でシートに寝そべるようにしてラジオを聴いていた。僕がノックすると顔を上げてドアのロックを外した。
「悪かった」と僕は言った。
「いろんな人が来たわょ。何か怒鳴ったり、窓ガラスを叩いたり、車をゆすったりしたの」と彼女は表情のない声で言った。そしてラジオのスイノチを切った。「すごく怖かった」
「悪かった」
それから彼女は僕の顔を見た。彼女の目は一瞬凍りついたように見えた。瞳がふっとその色を失い、静かな水面に木の葉が落ちた時のように表情が微かに揺れた。唇が言葉にならない言葉を形成しながらゆっくりと小さく動いた。「ねえ、あなたいったい何処で何してきたの?」
「わからない」と僕は言った。僕の声はどこかよくわからない場所から聞こえてくるみたいだった。あの足音の響きと同じように奥行きとひろがりが混濁していた。僕はポケットからハンカチを出して、ゆっくり汗を拭いた。僕の顔の上で、汗は冷たく固い膜のようになっていた。「よくわからないんだ。いったい何をしていたんだろう?」
ユキは目を細め、そっと手を伸ばして僕の頬に触れた。その指先はやわらかく、滑らかだった。彼女は僕の頬に指をつけたまま、匂いを嗅ぐときのようにすうっと音を立てて鼻から息を吸い込んだ。彼女の小さな鼻が少しだけ膨らんで堅くなったように見えた。彼女は僕をじっと見ていた。一キロメートルも向こうから見られているような気がした。「でも何かを見たんでしょう?」
僕は肯いた。
「口には出せないこと。言葉にならないこと。説明しようとしても、誰にもうまく説明できないこと。でも私にはわかるのよ」彼女は体をもたせかけるようにして僕の頬にそっと頬をつけた。そして十秒か十五秒くらいそのままの姿勢でじっとしていた。「かわいそうに」と彼女は言った。
「何故だろう?」と僕は言って、笑った。別に笑いたくなんかなかったが、笑わないわけにいかなかった。「僕はどう考えてみてもごく普通の当たり前の人間なんだ。どちらかといえば実際的な人間なんだ。なのにどうしていつもこんな奇妙なことにひきずりこまれてしまうんだろう?」
「さあ、どうしてかしら?」とユキは言った。「私に訊かないで。私は子供で、あなたが大人なのよ」
「確かに」と僕は一言った。
「でもあなたの気持ちよくわかるわよ」
「僕にはよくわからない」
「無力感」と彼女は言った。「何かすごく大きいものに振り回されていて、自分が何をしてもどうにもならないような気分」
「そうかもしれない」
「そういう時には大人はお酒を飲むのよ」
「正論だ」と僕は言った。
僕らはハレクラニのバーに行った。プールサイド・バーじゃない方の室内バーだった。僕はマティーニを飲み、ユキはレモン・ソーダを飲んだ。セルゲイ・ラフマニノフみたいな深刻な顔をした髪の薄い中年のピアニストが、グランド・ピアノに向かって黙々とスタンダード・ナンバーを弾いていた。客はまだ僕ら二人だけだった。彼は『スターダスト』を弾き、『バット・ノット・フォーミー』を弾き、『ヴァーモントの月』を弾いた。技術的にはもうしぶんなかったが、あまり面白い演奏ではなかった。彼はそのステージの最後にショパンのブレリュードをきちんと弾いた。これはなかなか素晴らしい演奏だった。ユキが拍手をすると、彼は二ミリくらい微笑み、それからどこかに消えた。
僕はそこのバーでマティーニを三杯飲んだ。そして目を閉じてあの部屋の中の光景を思い起こしてみた。それはリアルな夢のように感じられた。それはぐっしょりと汗をかいて目覚めて、ああやっぱり夢だったんだ、とほっと溜め息をつくような光景だった。でもそれは夢ではない。僕もそれが夢でないことを知っているし、ユキもそれが夢でないことを知っている。ユキは知っているのだ。僕がそれを見たことを。風化した六体の白骨。それは何を意味するのだろう?あの左腕のない白骨はデイック・ノースのものなのだろうか?それではあとの五体は誰のものだ?
キキは僕にいったい何を伝えようとしているのだ?
僕はふと気がついてポケットからさっき窓枠の上で見つけた紙片を取り出し、電話ボックスに行ってその番号を回してみた。誰も出なかった。コール音が深い底無しの虚無の中におもりを垂らすようにいつまでもいつまでも鳴り響いていた。僕はバーの椅子に戻って溜め息をついた。
「もし飛行機の席が取れたら、僕は明日日本に帰る」と僕は言った。「僕は少しここに長くいすぎた。楽しい休暇だったけど、そろそろ引き上げ時だという気がするんだ。日本に帰って片付けなくちゃいけないこともあるしね」
ユキは肯いた。僕が切り出す前から彼女にはそれがわかっていたようだった。「いいわよ。私のことは気にしないで。あなたが帰りたいと思えば帰ればいいのよ」
「君はどうする?ここに残る?それとも僕と一緒に日本に戻る?」
ユキは肩を小さくすぼめた。「しばらくママのところに泊めてもらうことにするわ。まだあんまり日本に戻りたくないから。泊めてくれって言えば断りもしないでしょう」
僕は肯いてグラスの底に残っていたマティーニを飲み干した。
「じゃあ明日マカハまで車で送ってあげるよ。まあ、それに、僕も最後にもう一度君のお母さんに会っておいた方がよさそうだしね」
それから僕らはアロハ・タワーの近くのシーフード・レストランに最後の夕食を食べにいった。彼女はロブスターを食べ、僕はウィスキーを飲んでからフライド・オイスターを食べた。彼女も僕もあまり喋らなかった。僕の頭の中はひどくぼんやりとしていた。カキを食べながらそのまま眠りこんで、白骨になってしまいそうな気がした。
ユキは時々僕の顔を見た。そして食事が終わると、「あなたもう帰って寝た方がいいみたいよ。ひどい顔してる」と僕に言った。
僕は部屋に戻ってTVをつけ、しばらく一人でワインを飲んでいた。TVは野球中継をやっていた。ヤンキーズ対オリオールズの試合だった。でも僕はとくに試合を見ていたわけではなかった。ただ何となくTVをつけておきたかっただけなのだ。何か現実的なものと繋がっているというしるしに。
僕は眠くなるまでワインを飲んだ。それから思い出して、もう一度紙片に書いてあった電話番号を回してみた。やはり誰も出なかった。僕ば十五回ベルを鳴らしてから電話を切った。そしてまたソファに座ってTVのブラウン管を睨んだ。ウィンフィールドがバッターボックスに入っていた。それから何かが頭にひっかかっていることに気づいた。何か、だ。
僕はTVを睨みながら、しばらくその何かについて考えてみた。
何かと何かが似ている。何かと何かが繋がっている。
まさか、と僕は思った。でも試してみる価値はある。僕はその紙片をもってドアのところに行き、ジューンがそこに書いた電話番号と、その紙片の電話番号を照合してみた。
同じだった。
何もかもが繋がっているんだ、と僕は思った。何もかもが繋がっている。そして僕だけがその繋ぎめを理解できないでいる。
翌朝僕はJALのオフィスに行って午後のフライトを予約した。そして部屋を引き払い、車でユキをマカハの母親のコテージまで送った。僕は朝アメに電話をかけて急な用事がでたので今日、日本に帰ることになったと言った。彼女はとくには驚かなかった。ユキを寝かせるくらいの場所はあるし、ここに連れてきてくれてかまわない、ということだった。その日は珍しく朝から曇っていた。いつまたスコールが降り出してもおかしくないような天気だった。僕はいつもの三菱ランサーで、いつものようにラジオを聴きながら、海岸沿いのハイウェイを一二○キロで走った。
「パックマンみたい」とユキが言った。
「何みたい?」僕は聞き返した。
「あなたの心臓の中にパックマンがいるみたい」とユキは言った。「パックマンがあなたの心臓を食べてるの。ビッピッピッッビピッッピ、て」
「比喩がよく理解できない」
「何かが蝕んでる」
僕はそれについて考えながらしばらく運転を続けた。「時々死の影のようなものを感じることがある」と僕は言った。「とても濃密な影なんだ。死がすぐ側にまで迫っているような気がする。腕がすっと伸びてきて、今にも僕の足首を掴みそうな気がするんだ。でも怖くはない。どうしてかというと、それはいつも僕の死じゃないからだ。その手がつかむのはいつも別の誰かの足首なんだ。でも誰かが死んでいくたびに僕の存在が少しずつずれていくような気がする。どうしてだろう?」
ユキは黙って肩をすぼめた。
「どうしてかはわからない。でもいつも死というものが僕の脇にいる。そしてチャンスがあると、それがどこかの隙間からふと姿を見せる」
「それがたぶんあなたの鍵なんじゃないかしら?あなたは死というものを通して世界と繋がっているのよ、きっと」
僕はまたそれについてしばらく考えてみた。
「君はすごく僕を落ち込ませる」と僕は言った。
ディック・ノースは僕がいなくなることを真剣に寂しがってくれた。我々の間にはたいして共通点はなかったけれど、それだけにある種の気楽さはあった。それに僕は彼の詩的な現実性に対して敬意のようなものさえ抱いていた。僕らは握手をして別れた。握手をするときにふとあの白骨のことを思い出した。あれは木当にディック・ノースだったんだろうか?「ねえ、君は自分がどういう死に方をするか考えたことはある?」と僕は彼に訊いてみた。
彼は微笑んで少し考えていた。「戦争中はよく考えたね。あそこには実にいろんな死に方があったから。でも最近はあまり考えない。あまりややこしいことを考える暇がないんだね。戦争より平和の方がずっと忙しい」彼は笑った。「でもどうしてそんなことを訊くの?」
別に理由はない、と僕は言った。ただちょっと思いついたんだと。
「考えておくよ。今度君に会うまでにね」と彼は言った。
それからアメが僕を散歩に誘った。僕らは肩を並べてジョギング用のコースをゆっくりと歩いた。
「いろいろと有り難う」とアメが言った。「本当に感謝してるのよ。私、そういうことどうも上手く言えないんだけど。でもねーーうん、まあ、そうなのよ。あなたがいてくれたおかげでいろんなことが上手く行ったような気がするわ。あなたが中間にいてくれると、どうしてか物事が円滑に流れるのよ。ユキともふたりでいろんな話ができたし、少しはお互いを理解しあえるようになったみたいだし。こうして泊まりに来てくれるようにもなったし」
「それはよかった」と僕は言った。僕が『それはよかった』という台詞を使うのは、他に何ひとつとして肯定的言語表現方法を思いつけず、しかも沈黙が不適当であるという危機的状況に限られている。でももちろんアメはそんなことには気がつかなかった。
「あなたと会ってからずいぶんあの子も精神的に落ち着いてきたように思うのよ。苛々したところも前よりは減ってきたし。きっとあなたとあの子は相性がいいのね。どうしてかは知らないけれど。ひょっとしてあなたたちの間には何かしら共通するところがあるのかしら。それ、どう思う?」
僕にはよくわからない、と僕は言った。
学校のことはどうしたらいいだろう、と彼女が僕に訊いた。
本人が行きたくないのなら行かせなくてもいいんじゃないか、と僕は言った。「とても難しい子だし、傷つきやすい子だし、無理に力ずくで何かをやらせようとしても無駄だと思いますね。それよりはきちんとした家庭教師をつけて最低限必要なことだけ教えた方がいいですよ。受験勉強の詰め込みやら下らないクラブ活動やら無意味な競争やら集団の抑圧やら偽善的な規則やらというのはどう考えてもあの子の性格に向いてない。学校なんて行きたくなければ行かなくていいものですよ。一人でやった方がきちんとできる人間だっているんです。
それよりはあの子にしかない才能をみつけてのびのびと伸ばしてやった方がいいんじゃないですか?あの子には何かしらうまく良い方に伸ばせるものがあると僕は思うんです。あるいはそのうちに自分の方から学校に行きたいと言い出すかもしれない。それならもちろん行かせればいい。いずれにせよそれはあの子自身に決めさせればいいことでしょう?」
「そうね」アメはしばらく黙って考えていたが、そう言って肯いた。「たしかにあなたの言うとおりかもしれない。私も全然団体的な人間じゃないし、ろくに学校なんか行かなかったから、あなたの言うことはよくわかるわよ」
「それがよくわかるんなら、何も考えることないじゃないですか。いったい何が問題だったんですか?」
彼女はぽきぽきという音を立てて何度か首を振った。
「別に、何も問題なんてないのよ。ただ私があの子に対して母親として確固とした自信を持てなかっただけ。だからそんな風にさっぱりと思い切れなかったのよ。向こうが何を言おうと、学校なんか行かなくったって構わないんだとはね。自信がないから弱気に考えちゃうのね。やっぱり学校に行かないとなんとなく社会的にまずいんじゃないか、とか、そういう風に」
社会的に、と僕は思った。「もちろんそれが正しい結論かどうかはわかりませんよ。誰にも先のことはわかりませんからね。結果的に上手く行かないかもしれない。でももしあなたがあの子に対してーー母親としてであれ、友達としてであれーーきちんと結びついているんだということを生活のレベルでこまめに示してやることができれば、そしてある程度の敬意のようなものを示してやることができれば、勘の良い子だから、あとは自分で何とか上手くやっていくでしょう」
彼女はショート・パンツのポケットに手をつっこんだまま、しばらく黙って歩いた。「あなたにはあの子の気持ちがとてもよくわかるのね。どうしてかしら」
理解しようと努めているからだと言いたかったが、もちろん言わなかった。
それから彼女は僕にユキの面倒をみてもらったことに対して何かお礼をしたいと言った。お礼なら牧村拓氏からもう充分にしてもらっているから気にすることはない、と僕は言った。今でももう充分すぎるくらいだ、と。
「でもしておきたいのよ。あの人はあの人、私は私。私は私として、あなたにお礼したいのよ。今しておかないと、私ってすぐに忘れちゃうから」
「そんなのこそ忘れちゃってかまわないですよ」と僕は笑って言った。
彼女は道端のベンチに腰をおろしてシャツのポケットから煙草を出して吸った。セイラムの青い箱は汗でくしゃっと柔らかくなっていた。いつもの鳥がいつもの複雑な音階で鳴いていた。
アメはそのままずっと黙って煙草を吸っていた。もっとも実際に煙を吸ったのは二口か三口で、あとは全部彼女の指の間でただの灰になってぽろぽろと芝生の上に落ちた。それは僕に時間の死骸のようなものを想起させた。彼女の手の中で時間が次々に死んで焼かれて白い灰になっていくのだ。僕は鳥の声を聞き、下の道をかたかたと走っていくカートに乗った庭師を眺めていた。僕らがマカハに着いたころから天候は徐々に回復に向かい始めていた。一度だけどこか遠くで微かな雷鳴が聞こえたが、それだけだった。圧倒的な力に押されるように厚い灰色の雲は次々に分断され、またいつもの勢いの良い光と熱気が地上に戻ってきた。彼女は半袖のダンガリ・シャツを着て(仕事をしている寺時女は大抵その同じシャツを着ていた、胸のポケットにボールベンとフェルト・ベンとライターと煙草を入れて)、サングラスもかけずに強い日差しの中に座っていた。彼女は眩しさも暑さもとくに気にならないようだった。たぶん暑いのだろうとは思う。その証拠に首筋を汗が幾筋か流れ、シャツのところどころに黒い染みができていた。でも感じないのだ。それが精神の集中のせいなのか、精神の拡散のせいなのか、僕には判断できなかった。でもとにかくそんな風にして十分が経った。瞬間的時空間移動のような実体のない十分間だった。彼女は時間の経過という現象をまるで気にしていないようだった。時間というのは彼女の生活を構成する要素の中には入っていないのだろう。あるいは仮に入っているとしても、その地位はとても低いのだろう。でも僕にとってはそうではない。僕は飛行機の予約をしてあるのだ。
「そろそろ行きます」と僕は腕時計を見て言った。「空港でレンタカーを返して料金を精算しなくちゃならないんで、できたら少し早めに着きたいんです」
彼女はもう一度焦点を合わせなおそうとするようなぼんやりとした目で僕を見た。それは時々ユキが見せる表情にとてもよく似ていた。現実と折り合いをつけねばというような表情だ。この母子のあいだにはたしかに共通する気質なり性向なりがある、と僕はあらためて思った。「ああ、そうね、時間がないのね。ごめんなさい。気がつかなかったわ」と彼女は言った。そしてゆっくりと一度ずつ頭を左右に傾けた。「ちょっと考え事をしてたものだから」
僕らはベンチを立って、もと来た道を歩いてコテージに戻った。
僕が出発するとき、三人は外に出て見送ってくれた。僕はユキにあまりジャンク・フードを食べすぎないようにと言った。彼女は唇をすぼめただけだった。でもまあディック・ノースがついているからその点は大丈夫だろう。
バックミラーに並んで写る三人の姿はとても奇妙だった。ディック・ノースは右手を高く上げて振り、アメは腕組みをしてぼんやりとした目で前方を見つめ、ユキは横をむいてサンダルの先で石を転がしていた。それは本当に不完全な宇宙の端っこに置き去りにされた寄せ集めの一家みたいに見えた。ついさっきまで自分もそんな中に混じっていたなんてとても信じられなかった。でも僕がカーブで左にハンドルを切ると、彼らの姿はミラーからふっと消えて見えなくなってしまった。そして僕は一人きりになった。とても久し振りに。
一人になるのは良い気分だった。もちろんユキと二人でいることが嫌なわけではなかったけれど、それとは関係なく、一人になるというのは悪くなかった。何かをやる前に誰に相談する必要もなく、失敗しても誰に言い訳する必要もなかった。おかしなことがあれば一人で冗談を言って一人でくすくす笑っていればよかった。誰も「その冗談はつまらない」とは言わなかった。退屈すれば灰皿でも眺めていればよかった。僕がじっと灰皿を眺めていても誰も「どうして灰皿なんか眺めてるの?」と訊かなかった。良くも悪くも、僕は一人の生活にあまりにも馴れてしまったのだ。
一人になると、僕の回りの光の色や風の匂いまでが僅かにーーしかし確実にーー変化したように感じられた。空気を思いきり吸い込むと体の中の空間が幾らか広がったような気がした。僕はジャズのFM局にラジオをあわせ、コールマン・ホーキンズだのリー・モーガンだのを聴きながら空港までのんびりと運転した。空を一面に覆っていた雲はむりやりにひきちぎられたみたいにばらばらになって、今では隅のほうにぽつんぼつんと残っているだけだった。貿易風が椰子の葉を揺らせ、そんな雲の断片をゆっくりと四の方向に流していった。747が銀色の楔のように激しい角度で空にのめりこんでいくのが見えた。
一人になると、僕は急に何も考えられなくなってしまった。頭の中で急速に重力が変化してしまったような感じがした。僕の思考はその重力変化に上手くついていくことができなかった。でも何も考えられないというのも素敵なことだった。いいじゃないか、何も考えるな、と僕は思った。ここはハワイなんだ、くそったれ、なんで考え事なんかしなくちゃいけないんだ。僕は頭を空っぼにして運転に神経を集中し、『スタッフィー』や『サイドワインダー』にあわせて口笛と隙間風の中間くらいの音色の口笛を吹いた。時速一六○キロを出して坂を下るとまわりで風がうなった。坂道の角度が変わると、太平洋が鮮やかな青に染まって視界いっぱいに広がった。
さて、と僕は思った。これで休暇は終りだ。何はともあれ、終わるべくして終わったのだ。
空港の近くのレンタカー・オフィスに車を返し、JALのカウンターで搭乗手続きを済ませてから、僕は最後にもう一度だけ空港の電話ボックスで例の謎の電話番号を回してみた。
でも予想したとおり、誰も出なかった。いつまでもコール音が鳴り響いているだけだった。僕は電話を切り、しばらくボックスの中で電話機を眺めていた。それからあきらめてファースト・クラスの待合室に行ってジン・トニックを飲んだ。
東京、と僕は思った。でも東京のことがうまく思い出せなかった。
 

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