ダンス・ダンス・ダンス

一週問が過ぎた。春が地歩を固め、確実に前進していく一週間だった。春は一度も後戻りしなかった。三月とは全然違うのだ。桜が咲き、そして夜の雨がそれを散らせた。選挙はやっと終わり、学校の新学期が始まった。東京ディズニーランドが開園した。ビヨルン・ボルグが引退した。ラジオのトッブテンの一位はずっとマイケル・ジャクソンだった。死者はずっと死者のままだった。
僕にとってのそれはとりとめのない一週間だった。
どこに行くというあてもない日々の羅列だった。僕はその週に二回プールに行って泳いだ。そして床屋に行った。時々新聞を買って読んでみたが、メイについての記事は見当たらなかった。おそらくまだ身元がわからないのだろう。僕はいつも渋谷駅の売店で新聞を買い、ダンキン・ドーナッツでそれを読み、 読み終えるとごみ箱に捨てた。たいした記事はなかった。
その週は火曜日と木曜日にユキに会って話をし、食事をした。そして週が明けた月曜日には音楽を聴きながら車で遠出した。彼女と会うのは楽しかった。我々には共通点があった。暇なのだ。母親はまだ帰国していなかった。僕と会わないときは、日曜日以外は昼間は殆ど外には出ないのだと言った。ぶらぶら歩いてると補導されちゃうからね、と彼女は言った。
「ねえ、今度ディズニーランドに行ってみないか?」と僕は聞いてみた。
「あんなところ行きたくなんかないわよ」と彼女は顔をしかめて言った。「ああいうの嫌いの」
「ああいうソフトでやわでわざとらしくて子供向きで商業主義的でミッキーマウス的なところは嫌なんだね?」
「そうよ」と彼女は簡単に答えた。
「でも家でじっとしてると体に良くない」と僕は言った。
「ねえ、ハワイに行かない?」と彼女は言った。
「ハワイ?」と僕はびっくりして言った。
「ママが電話してきて、私に少しハワイに来ればっていうの。あの人いま、ハワイにいるの。ハワイで写真とってるの。ずっと私のこと放っておいたんで、きっと突然心配になったのね。そして電話してきたの。ママはまだしばらくは日本に戻れないし、どうせ私も学校に行ってないしね。うん、まあ、ハワイって悪くないじゃない。それでもしあなたが来られるんだったらあなたの分のお金も出してくれるって。だって私ひとりで行けないでしょう?一週間くらい遊びに行こうよ。きっと面白いわよ」
僕は笑った。「ディズニーランドとハワイの違いは何処にあるんだろう?」
「ハワイには補導員はいないわよ。少なくとも」
「まあ、悪い考えじゃないな」と僕は認めた。
「じゃあ一緒に行く?」
僕はそれについて少し考えてみた。そして考えれば考えるほど八ワイに行ってもいいような気持ちになってきた。というか、何となく東京の街を離れて全く違う環境に身を置いてみたかった。僕はこの東京の街で全くの手詰まりになっていた。良い考えというのが全然頭に浮かんでこないのだ。糸は切れたままだったし、新しい糸も出てくる気配はなかった。見当違いな場所で見当違いなことをやっているような気分だった。何をやってもしっくりと体に馴染まなかった。間違ったものを食べつづけ、間違ったものを買いつづけているような薄暗い気持ちだった。そして死人は非常に、完全に、死んでいた。一言で言えば、僕はいささか疲れていた。警察で絞り上げられたあの三日間の疲労がまだきちんと取れていないのだ。
以前に僕は一日だけハワイに滞在した事があった。仕事でロス・アンジェルスに行った時、途中で飛行機のエンジンの具合が悪くなって、ハワイで足止めを食い、ホノルルに一泊させられたのだ。僕は航空会社が用意してくれたホテルの売店でサングラスと水着を買い、一日ビーチに寝転んで過ごした。素晴らしい一日だった。ハワイ、悪くない。
そこで一週間のんぴりして、たっぷりと泳いで、ピナ・コラーダを飲んで帰ってくる。疲れもとれている。ハッピーな気持ちにもなっている。日焼けもしている。そしてあらためて視点を変えて物事を見直し、考え直してみる。そしてたぶんこう思う、そうだ、こういう考え方があったんだ、と。悪くない。
「悪くない」と僕は言った。
「じゃあ、決まりね。切符を買いに行こう」
その前に僕は彼女に電話番号を聞いて牧村拓の家に電話をかけた。電話には書生のフライデーが出てきた。僕が名前を告げると、彼は愛想良く取り次いてくれた。
牧村拓に僕は事情を説明した。そして彼女を連れてハワイに行ってかまわないだろうか、と聞いてみた。願ってもないことだ、と彼は言った。
「少し君も外国に行ってのんびりしてきた方がいい」と彼は一言った。「雪かき労働者にだって休暇は必要だ。警察にも小突きまわされずにすむ。あの事件はまだ落着してないんだろう?あいつらまた君んところに来るぞ、きっと」
「そうかもしれないですね」と僕は言った。
「金のことは気にしなくていいから、好きなだけ行ってていい」と彼は言った。この男と話すと結局いつも金の話になる。現実的なのだ。
「好きなだけといわれても困ります。せいぜい一週間くらいのものですよ」と僕は言った。
「僕にもいろいろとやらなくちゃいけないことはありますから」
「なんでもいい。君の好きにすりゃあいい」と牧村拓は言った。「それでいつ行く?うん、早い方がいいだろうな。旅行ってのはそういうもんだ。思いついたらすぐに行くんだ。それがコツだよ。荷物なんてたいしたものはいらん。シベリアに行くわけじゃないもんな。足りなきゃ向こうで買えばいいんだ。向こうで何だって売ってる。そうだな、明後日の切符は取れると思う。それでいいか?」
「いいですけれど、僕の切符の分は自分で払いますよ。ですからーー」
「ぐずぐずと下らんこと言うな。俺はこういう仕事してるから、飛行機の切符くらいおそろしく安く買えるんだ。すぐに良い席が手に入る。ここは俺に任せておけばいいよ。人にはそれぞれの能力というものがあるんだ。余計なことは言わなくていい。システムがどうこうなんてことを言うな。ホテルも俺の方でとっておいてやる。二部屋。君とユキの分だ。どうする?キッチンつきがいいか?」
「ええ、自炊できれば僕はその方がありがたいですがーー」
「良いのを知ってる。ビーチに近くて、静かで、綺麗だ。前に泊まったことあるんだ。とりあえずそこを二週間押さえておく。好きなだけいればいい」
「しかしですねーー」
「余計なことは何も考えるな。全部俺に任せろ。大丈夫だ。母親には俺の方から連絡しておく。君はただホノルルに行って、ユキと一緒にビーチに寝転んで飯を食ってればいいんだ。母親はどうせ仕事でとびまわってる。仕事してると娘だろうがなんだろうが、眼中になくなっちまうんだ。だから君も何も気にしなくていい。のんびりしてりゃいい。ユキにちゃんと飯を食わせてくれればそれでよろしい。リラックスするんだよ。体の力を抜くんだ。それだけだ。ああ、そうだ、ビザは持ってるよな?」
「持ってます。ただーー」
「明後日だぞ。いいな。水着とサングラスとパスポートだけ持っていきゃいい。あとは買えばいい。簡単だ。シベリアに行くわけじゃない。シベリアはきつかった。あそこはひどい。アフガニスタンも相当だった。ハワイなんてディズニーランドみたいなもんだ。あっという間だよ。寝転んで口を開けてりゃいいんだ。ところで君、英語できるよな?」
「普通の話くらいならーー」
「結構」と彼は言った。「充分だ。パーフェクトだ。言うことない。中村に明日切符をそちらに持って行かせる。その時にこの前の札幌からの飛行機代も持っていかせる。行く前に電話する」
「中村?」
「書生だよ。この前会っただろう。住み込みの若い男」
書生のフライデー。
「何か質問はあるか?」と牧村拓が訊いた。沢山質問があったような気がしたが、僕はひとつも思い出せなかった。とくにない、と僕は言った。
「結構」と彼は言った。わかりが早い。俺好みだ。ああ、そうだ、それからもうひとつ君に俺からプレゼントがある。これも受け取ってくれ。それが何かは向こうに行けばわかる。リボンを取ってのお楽しみだ。ハワイ。良いところだ。遊園地だ。リラックス。雪かきはなし、だ。匂いが良い。楽しんでこいよ。またそのうちに会おう」
そして電話が切れた。
へビー・デューティーな作家。
僕はレストランの席に戻って、明後日出発ということになりそうだ、とユキに言った。「いいわね」と彼女は言った。
「一人で準備できる?荷物とか、バッグとか、水着とか、そういうもの」と僕は聞いてみた。
「だってハワイでしょう?」と彼女は怪訝そうな顔をして言った。「そんなの大磯に行くのとたいして変わらないわよ。カトマンズに行くわけじゃないもの」
「まあね」と僕は言った。
でもそうはいっても、一応僕には旅行前にやっておくことが幾つかあった。僕は翌日銀行に行って預金を下ろし、トラベラーズ・チェックを組んだ。預金はまだずいぶん残っていた。先月分の原稿料が入ってきているのでむしろ増えているくらいだった。それから書店に行って、本を何冊か買った。クリーニング屋からシャツを持って帰った。家に帰って冷蔵庫の食品の整理をした。三時にフライデーから電話があった。今丸の内にいるのだがこれからそちらに切符を持っていっていいかと彼は言った。僕らはパルコのコーヒー・ルームで待ち合わせた。彼は僕に分厚い封筒を渡した。中には札幌から東京までのユキの飛行機代と、JALのフアースト・クラスのオーブン・チケットが二人分と、アメックスのトラベラーズ・チェックが二冊入っていた。その他にはホノルルのアパートメント・ホテルの地図が入っていた。「そこに行ってあなたの名前をおっしゃっていただければわかるようになっています」とフライデーは言った。「予約は二週間とってありますが、短くも長くも変えられます。それから、小切手はあなたのサインを入れておいて下さい。好きに使って下さい。遠慮することない、どうせ経費で落ちるんだから、ということでした」
「何でも経費で落ちる」と僕はあきれて言った。
「全部というのは無理でしょうが、できたら領収書のもらえるものは領収書をもらっておい下さい。あとで僕が処理することになりますので、その方がありがたいんです」とフライデーは笑いながら言った。決して厭味な笑いかたではなかった。
そうする、と僕は言った。
「気をつけて良い御旅行を」と彼は言った。
「有り難う」と僕は言った。
「でもまあハワイですから」とフライデーはにこにこしながら言った。「ジンバブェに行くわけじゃないですから」
いろんな言い方がある。
日が暮れてから僕は冷蔵庫の中の物をかきあつめて夕食を作った。野菜サラダとオムレつ味噌汁がちょうど出来た。明日からハワイなんだと思うとなんだか不思議な気がした。僕にとってはそれは明日からジンバブェだというのと同じような不思議な気分だった。それはたぶん僕がジンバブェに行ったことのないせいだろう。
僕は押し入れからあまり大きくないビニールの旅行用バッグを出して、そこに洗面用具を入れたバッグと本と替えの下着と靴下を入れた。そして水着とサングラスと日焼けクリームを入れた。Tシャツを二枚とボロシャツとショートパンツとスイス・アーミー・ナイフを入れた。マドラス・チェックの夏物の上着をきちんと畳んで一番上に入れた。そしてバッグのファスナーをしめ、パスポートとトラベラーズ・チェックと免許証と飛行機のチケットとレジット・カードを確認した。その他に何か持っていくべきものはあるだろうか?
何も思いつけなかった。
ワイに行くのはとても簡単なことなのだ。確かに大磯にいくのとあまり変わらない。北海道行きの方がはるかに荷物は多かった。
僕は荷作りしたバッグを床に置き、着ていく服を用意した。ブルージーンズとTシャツとヨットパーカと薄いウィンドブレーカーを畳んで積んでおいた。それだけやってしまうと、すごく手持ち無沙汰になってしまった。何もすることがないのだ。仕方ないので風呂に入ってビールを飲み、TVのニュースを見た。たいしたニュースはなかった。天気は明日から崩れるだろうとアナウンサーは予言していた。結構、と僕は思った。我々は明日からはもうホノルルなのだ。僕はTVを消して、ベッドに寝転んでビールを飲んだ。そしてまたメイのことを考えた。非常に、完全に、死んでいるメイ。彼女は今、ひどく冷たいところにいる。身元もわかってない。引き取り手もいない。ダイア・ストレイツもボブディランももう聴けない。そして僕は明日からハワイに行こうとしている。それも他人の経費で。これが世界の正しいありかたなのだろうか?
僕は首を振って、メイのイメージを頭の中から追い払った。またいつか考えよう。今は少しハードすぎる話題だ。ハードすぎるし、ホットすぎる。
僕は札幌のドルフィン・ホテルの女の子のことを考えてみた。眼鏡をかけたフロントの女の子。名前も知らない女の子。僕はここのところ何日かひどく彼女と話がしたかった。僕は彼女の夢さえ見たのだ。でもいったいどうすればいいのか、僕にはわからなかった。何と言って電話をかければいいのだ?眼鏡をかけたフロントの女の子と話をしたいんですが、言えばいいのだろうか?駄目だ。そんなのが上手く行くわけがない。おそらくとりあってもくれないだろう。ホテルというのはとてもシリアスな職場なのだ。
僕はそれについてしばらく考えてみた。そして何かきっと上手い方法があるはずだと思った。意志のあるところに方法は生じるものなのだ。十分で僕はその方法に思いあたった。上手くいくかどうかはともかく、やってみる価値はある。
僕はユキに電話をかけてみた。そして明日の打ち合わせをした。朝の九時半にタクシーで迎えに行くと言った。そしてそのついでにという感じで、あの女の人の名前を知らないかと聞いてみた。ほら、君を僕に預けたホテルのフロントの女の人。眼鏡をかけた人。
「うん、知ってると思う。たしかものすごっく不思議な名前だったから、日記に書きとめてある。今は思い出せないけど、日記を見ればわかると思う」
と彼女は言った。
「今見てくれないかな?」と僕は言った。
「今TV見てるのよね。後でいいでしょう?」
「悪いけど急ぐんだよ、すごく」
彼女はぶつぶつ文句を言ったが、それでも日記を調べてくれた。「ユミヨシさん」と彼女は言った。
「ユミヨシ?」と僕は言った。「それはいったいどんな字を書くの?」
「知らないわよ。だからすごく不思議な名前だって言ったでしょう。字なんか知らない。沖縄の人か何かじゃないの。だってそういう感じの名前じゃない?」
「いや、沖縄にもそんな名前なかったと思うな」
「でもとにかくそういうのよ。ユミヨシっていうの」とユキは言った。「ねえ、もういい?TV見てるのよ」
「何を見てるの?」
彼女はそれには答えずにがちゃんと電話を切った。
僕は試しに東京の電話帳を片っ端から繰ってユミヨシという名前を捜してみた。信じられないことに東京都内には二人のユミヨシ氏がいた。一人は「弓吉」という字になっていた。もうひとりは写真屋で、かたかなで「ユミヨシ写真館」とあった。世の中にはいろんな名前がある。
それから僕はドルフィン・ホテルに電話をかけて、ユミヨシさんはいらっしゃいますでしょうかと聞いてみた。たいして期待もしていなかったのだが、ちゃんと相手は彼女にとりついでくれた。やあ、と僕は言った。彼女は僕のことを覚えていた。捨てたものではない。
「今仕事中なのよ」と彼女は小さな声でクールに簡潔に言った。「あとで電話する」
「いいよ、あとで」と僕は言った。
ユミヨシさんからの電話を待っているあいだに、僕は五反田君の家に電話をかけ、明日から急にしばらくハワイに行くことになった、というメッセージを留守番電話に入れておいた。
五反田君は家にいたらしく、すぐに電話をかけてきた。
「いいね。うらやましい」と彼は言った。「気分転換にとてもいい。行けるものなら僕も行きたい」
「君だって行けなくはないだろう?」と僕は言った。
「いや、それがそう簡単にはいかない。事務所に借金がある。結婚、離婚云々のごたごたでずいぶん金を借りたんだ。僕がそれで一文なしになった話はたしか君にしたね?その借金を返すために僕は身を粉にして働いている。出たくもないコマーシャルにも出てる。まったく変な話さ。経費はどんどん使える。でも借金はなかなか返せない。世の中は日毎にややこしくなってる。自分が貧乏なのか金持ちなのか、それさえわからない。物は豊富にあるのに、欲しいものがない。金は幾らでも使えるのに、本当に使いたいもののためには使えない。綺麗な女は幾らでも買えるのに、好きな女とは寝られない。不思議な人生だ」
「借金の額は多いの?」
「かなりのものだね」と彼は言った。「でも、かなりのものだというだけで、何がどうなってるのかは当事者である僕にもさっぱりわからん。ねえ、自慢するわけじゃないが、僕は大抵のことは人並みか人並み以上にできる。ところが金の勘定がまるっきりの苦手なんだ。帳簿の金の数字を見ると生理的にぞっとする。目をそらせちゃうんだ。僕の家はまあ昔風の家でね、そういう風にしつけられたんだ。金のことをとやかく言うのは上品な人間ではないと教えられた。数字のことは気にするな、一所懸命働いて分相応に暮らしていればそれでいいんだって。細部にこだわるな、大筋でしっかり生きろってさ。まあそれはひとつの考え方ではあるよ。少なくともその当時はそうだった。でもね、分相応なんていう観念そのものが消えてしまった今となっては、そんな考え方には何の意味もない。それで話はややこしくなった。大筋がなくなって、数字に弱いという細部だけが残った。最悪だよ。何がどうなっているのか、僕にはさっぱりわからない。事務所の税理士が僕に細かく説明してくれる。でも面倒でとても理解できない。金があっちにいったり、こっちにいったりしている。名目上の借金があったり、名目上の貸し金があったり、経費の操作があったり、ものすごくこみいっている。もっとさっぱりとしてほしいと僕は言う。でもそんなこと言っても誰もとりあってくれない。じゃあとにかく結果だけを教えてくれと言う。教えてくれる。これは簡単だ。借金がまだずいぶんある。かなり減ったが、まだこれこれが残っている。だから働け。そのかわり経費はどんどん使え。そういうことだ。くだらん。何だか蟻地獄みたいだ。ねえ、働くのはいいんだよ、僕は。別に嫌いじゃない。しかし仕組みが理解できないというのは困る。時々怖くなることがあるんだーー。ああ、また喋りすぎてるな。悪かった。君と話するとつい喋りすぎる」
「いいよ。かまわないよ」と僕は言った。
「でも君に関係ないことだし、また今度会ってゆっくり話せる」と五反田君は言った。「まあ気をつけて行ってこいよ。君がいないと寂しいね。暇が出来たら会って飲みたいと思ってたんだ、ずっと」
「ハワイだよ」と僕は笑って言った。「何も象牙海岸に行くわけじゃない。一週間で帰ってくる」
「まあ、そりゃそうだ。帰ってきたらとにかく電話をくれないか?」
「電話する」と僕は言った。
「君がワイキキ・ビーチで寝転んでいるあいだ、僕は歯医者の真似ごとをして借金を返済してる」
「世の中にはいろんな人生がある」と僕は言った。「人それぞれそれぞれの
生き方。Different strokes for different folks.」
「スライとザ・ファミリー・ストーン」と五反田君はぱちんと指を鳴らして同世代の人間と話していると確かにある種の手間が省ける。
ユミヨシさんは十時前に僕に電話をくれた。今仕事から帰って、家から電話していると言った。僕は降りしきる雪の中の彼女のアパートをふと思いだした。とてもシンプルなアパート。とてもシンプルな階段。とてもシンプルなドア。彼女の神経質そうな微笑。そういう何もかもひどく懐かしかった。僕は目を閉じて夜の闇の中を静かに舞う雪を想像した。まるで恋をしているみたいだ、と僕は思った。
「どうして私の名前がわかったの?」とまず彼女は訊いた。
ユキが教えてくれたんだと僕は説明した。「何も不正なことはしてない。買収もしていない。盗聴もしていない。誰かを殴って聞き出したわけでもない。あの子に礼儀正しく尋ねたら教えてくれたんだ」
彼女は疑わしそうに少し黙っていた。「あの子どうだった?ちゃんと無事に送り届けてくれた?」
「無事だよ」と僕は言った。「ちゃんと送り届けたし、今でもときどき会ってる。元気だよ。ちょっと変わった子だけれど」
「あなたとお似合いよ」とユミヨシさんは特に何の感情も込めずに言った。それは世界中の人間が誰でも知っている明白な事実みたいに聞こえた。猿はバナナが好きだとか、サハラ砂漠にはあまり雨が降らないとか、そういう感じだった。
「ねえ、どうしてずっと僕に名前を隠してたの?」と僕は尋ねてみた。
「違うわよ。今度来たら教えるって言ったでしょう?隠してたわけじゃない」と彼女は言った。「隠してるんじゃなくて、教えるのが面倒なだけだったの。どういう字を書くのかとか、そういう名前はよくあるのかとか、何処の出身なのかとか、みんなそういうことばかり訊くから、それが面倒で名前を人に教えるのがあまり好きじゃないの。あなたが思ってるよりずっと煩わしいことなのよ、そういうのって。いつもいつも同じこと答えなくちゃいけないんだもの」
「でも良い名前だよ。さっき調べてみたんだけれど、東京都内にも二人ユミヨシさんがいた。知ってる?」
「知ってるわよ」と彼女は言った。「私、以前東京に住んでたって言ったでしょう。それくらいとっくに調べてるわよ。変わった名前もってるとね、行く先々で電話帳を調べる癖がついちゃうのよ。どこに行ってもまず電話帳を繰ってみるの。ユミヨシ、ユミヨシって。京都にも一人いるわよ。それで、何か私に用事があるの?」
「別にとくに用事はないんだ」と僕は正直に言った。「明日から旅行でしばらくいなくなる。それでその前に君の声を聞いておきたかったんだ。それだけだよ。時々とても君の声が聞きたくなる」
彼女はまたしばらく黙っていた。電話が少し混線していた。ものすごく遠くの方で女が喋っている声が聞こえた。長い廊下の向こうの端から聞こえてくるような声だった。小さく乾いていて、妙な響き方をした。内容までは聞き取れなかったが、それはとても辛そうな声に聞こえた。辛そうに、途切れ途切れにその声は話しつづけていた。
「ねえ、この前エレベーターを降りたら真っ暗だったっていう話をしたわよね、あなたに?」
とエミヨシさんは言った。
「うん、聞いた」と僕は言った。
「実はあれがまたあったの」と彼女は言った。
僕は黙っていた。彼女も黙っていた。遠くの方で女はまだ辛そうに喋り続けていた。彼女の話している相手は時々相槌を打ったが、その声はひどく聞こえにくかった。もそっとした声が「ああ」とか「うん」とかーーたぶんそう言っているのだろうと思うーー短く答えるだけだった。女はゆっくりと梯子でも登るみたいに、辛そうに話し続けていた。まるで死人が語りかけているみたいだな」と僕はふと思った。長い廊下の端の方から死人が話しかけている。死んでいるというのが、どれほど辛いことなのかについて。
「ねえ、聞いてる?」とユミヨシさんが言った。
「聞いてるよ」と僕は言った。「話して、そのことを」
「でもあなた、本当にあの時私の言ったことを信じてくれたの?ただ適当に相手をしただけなんじゃないの?」
「信じてるよ」と僕は言った。「君には言わなかったけれど、あのあとで僕も君と同じ場所に行ったんだ。エレベーターを使って、同じ真っ暗闇の中に。そして君とまったく同じ体験をした。だから君の言うことは全部信じてる」
「行った?」
「そのことは改めてゆっくり話そう。今はまだ上手くちゃんと言えないんだ。いろんなことが解決してないから。今度君に会ったときに始めから終わりまで順序だててきちんと説明する。だから僕はそのためにももう一度君に会う必要があるんだ。でもそれはそれとして、今はともかく君の話を聞かせてくれないか?それはとても大事なことだから」
しばらく沈黙がつづいた。混線の会話はもう聞こえなくなっていた。そこにはただ電話的沈黙があるだけだった。
「何日か前」とユミヨシさんは言った。「十日くらい前かしら。私がエレベーターで地下の駐車場に下りようとしたの。夜の八時くらいに。するとまたあそこに出たの。前と同じ。エレベーターを降りてふと気づいたらそこにいたの。今度は真夜中でもないし、十六階でもなかった。でも同じだった。真っ暗で、黴の匂いがして、湿ってるの。匂いも暗さも湿り気もまったく同じよ。今度は私、何処にもいかなかった。じっとそこにいて、エレベーターが戻ってくるのを待ってたの。ずいぶん長い時間だったような気がするけど。そしてエレベーターが戻ってきて、それに乗ってそこを出てきたの。それだけ」
「そのことは誰かに話した?」と僕は訊いた。
「誰にも話してない」と彼女は言った。「だって二回目でしょう?今度はもう誰にも言わない方が良いと思ったの」
「それでいい。もう誰にも言わない方が良い」
「ねえいったいどうすればいいのかしら?最近エレベーターに乗る度にドアが開いたらあの暗闇がまたあるんじゃないかと怖くてしかたないの。でもこういう大きなホテルで働いていると一日に何度もエレベーターに乗らないわけにはいかないし。どうしたらいいと思う?このことではあなたの他に相談する相手もいないのよ、私には」
「ねえ、ユミヨシさん」と僕は言った。「どうしてもっと前に電話をくれなかったの?そうすればもっと前に君にちゃんと説明できたのに」
「何度も電話したわよ」と彼女は小さな声で囁くように言った。「でもあなたはいつもいなかったの」
「留守番電話が入っていたでしょう?」
「あれ、嫌いなの。すごく緊張するの」
「わかった。じゃあ今簡単に説明する。あの暗闇は邪悪なものじゃないし、君に対して悪意を抱いてもいない。だから脅えることはないんだよ。そこにはあるものが住んでいるけどーー君はその足音を聞いたよねーーそれは決して君を傷つけたりはしない。それは何かを傷つけるようなものじゃないんだ。だから君はもしまた暗闇に遇ったら、じっと目を閉じてそこでエレベーターが戻ってくるのを待っていればいいんだよ。わかった?」
ユミヨシさんはしばらく黙って僕の言ったことを咀嚼していた。「正直な感想言っていいかしら?」
「もちろん」
「私、あなたのことがよくわからないの」とユミヨシさんがとても静かに言った。「時々あなたのことを思い出すの。でもあなたという人間の実体がよくわからないの」
「君の言っていることはよくわかる」と僕は言った。「僕は三十四だけれど、残念ながら年齢のわりにはまだ解明されていない部分が多すぎる。保留事項も多すぎる。今それを少しずつ詰めているところなんだ。僕なりに努力してる。だからもう少し時間がたてば、いろんなことを君に正確に説明できると思う。そして我々はもっと深く理解しあえるはずだと思う」
「そうなるといいわね」と彼女は非常に第三者的に言った。TVのニュース・キャスターみたいだなと僕はふと思った。「そうなるといいですね。はい、それでは次のニュース」という感じだった。それでは次のニュース……、
実は明日からハワイに行くのだ、と僕は言った。
「へえ」と彼女は無感動に言った。それが我々の会話の終わりだった。僕らはさよならを言って電話を切った。僕はウィスキーを一杯だけ飲み、電気を消して眠った。
 

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