ダンス・ダンス・ダンス

海岸の近くにあるユキの父親の家に着いた時にはもう日が暮れかけていた。古くて広くて、いやに庭木が多い家だった。その一角には湘南がまだ浜辺の別荘地だったころの面影が残っていた。静かでひっそりとして、春の夕暮れがよく似合っていた。ところどころの庭で桜がもったりと蕾を膨らませていた。桜が咲き終わると、やがて木蓮が花をつけることだろう。そういう具合に色合いと匂いの微かな日々の変化によって季節の移り変わりを感じ取ることができる。そんな場所がまだ残っているのだ。
牧村家は高い板塀で囲まれ、門は屋根のついた昔風の造りだった。表札だけがいやに新しく、そこにくっきりとした字で黒々と「牧村」と書いてあった。ベルを押すとしばらくして二十代半ばの背の高い男が出てきて、僕とユキを中に通してくれた。髪が短く、愛想の良い男だった。僕に対してもユキに対しても愛想が良かった。ユキとは前に何度か会っているらしかった。彼は五反田君と同じような清潔で感じの良い笑い方をした。でももちろん五反田君の方がずっと洗練されていた。彼は僕を奥の庭に案内しながら、自分は牧村先生の手伝いをしているのだと言った。
「自動車の運転手やったり、原稿を届けたり、調べ物をしたり、ゴルフのお供したり、麻雀のおつきあいしたり、外国についていったり、とにかく何でもやりますよ」と彼は特に聞かれもしないのに楽しそうに僕に説明した。「昔風に言えば住み込みの書生というところですね」
「へえ」と僕は言った。
ユキは「馬鹿みたい」と言いたそうだったが、何も言わなかった。彼女もやはり相手を見て物を言うのだろう。
牧村先生は裏庭でゴルフの練習をしていた。松の木の幹と幹の間に緑色のネットを張って、真ん中の的を目掛けて思いきりボールを打っていた。クラブが空を切るヒュプッいう音が聞こえた。僕が世の中でいちばん嫌いな音のひとつだ。惨めで物哀しく聞こえる。どうしてだろう?簡単だ。偏見があるからだ。僕がゴルフというスポーツわけもなく嫌っているからだ。
僕らが入っていくと振り向いてクラブを下に置いた。そしてタオルをとって丁寧に顔の汗を拭き、ユキに「よく、来たな」と言った。彼女は何も聞こえなかった振りをした。目を逸らしてジャンパーのポケットからガムを出し、紙をはがして口に入れ、くちゃくちゃと音を立てて噛んだ。そして包装紙を丸めて近くの植木鉢の中に捨てた。
「こんにちはくらい言えば」と牧村先生は言った。
「こんにちは」とユキが嫌そうに言った。そしてジャンパーのポケットに手をつっこんだままふらりとどこかに行ってしまった。
「はい、ビール持ってきてくれ」と牧村先生がぶっきらぼうな声で書生に言った。書生は「はい」とよく澄んだ大きな声で返事をして足早に庭を出ていった。牧村先生は大きな咳払いをして地面にぺっと唾を吐き、またタオルで顔の汗を拭いた。そして僕の存在は無視してしばくの間じっと緑のネッと白い的を睨んでいた。何かを総合し省察するように。僕はそのあいだ苔のはえた庭石をぼんやりと見ていた。
場の雰囲気は僕には何となく不自然で人工的で、多少馬鹿馬鹿しく感じられた。何処が悪いというのではない。誰が間違っているというのでもない。でもどうも何かのパロディーみたいな感じがするのだ。みんなきちんと自分に与えられた役割を果たしているように見える。作家と書生。でも五反田君ならもっとチャーミングに上手くやれるだろうなと僕は思った。五反田君は何でも上手くやれるのだ。たとえ脚本がまずくとも。
「君がユキの面倒を見てくれたんだって」と先生は言った。
「たいしたことじゃないです」と僕は言った。「ただ一緒に飛行機に乗って帰ってきただけです。何もしてないですよ。それよりも警察のこと有り難うございました。助かりました」
「うん、ああ、いや、そりゃいいんだ。とにかくこれで貸し借りなしだ。気にしなくていい。それに娘が俺に何か頼みごとするなんて稀有なことだからさ。別にそりゃいいんだ。俺も警察は昔から嫌いだ。六○年には俺もひどい目にあった。樺美智子が死んだとき俺は国会の回りにいた。大昔だ。大昔にはーー」
それから彼は腰を屈めてゴルフ・クラブを拾い上げ、僕の方を向き、クラブで自分の足をとんとんと軽く叩きながら僕の顔を見て、僕の足元を見て、また僕の顔を見た。まるで足と顔の相関関係を捜しているみたいに。
「ーー大昔には、何が正義で、何が正義じゃないかちゃんとわかっていた」と牧村拓は言った。
僕はあまり熱意をこめないで肯いた。
「君はゴルフやるか?」
「やりませんね」と僕は答えた。
「ゴルフは嫌いか?」
「好きも嫌いも、やったことないですからね」
彼は笑った。「好きも嫌いもないなんてことはなかろう。大体においてゴルフやったことのない人間はみんなゴルフのことが嫌いなんだ。決まってるんだ。正直に言っていいよ。正直な意見が聞きたい」
「好きじゃないですね、正直言って」と僕は正直に言った。
「どうして?」
「何をとっても馬鹿気てるように感じられるんです」と僕は言った。「大袈裟な道具とか偉そうなカートとか旗とか、着る服とか履く靴とか、しゃがみこんで芝を読む時の目付きとか耳の立て方とか、そういうのがひとつひとつ気に入らないんです」
「耳の立て方?」と彼は不思議そうな顔つきで聞き返した。
「ただの言い掛かりです。意味ないです。ただゴルフに付随する何もかもが気にさわるというだけです。耳の立て方のことは冗談です」と僕は言った。
牧村拓はまたしばらく空虚な目で僕の顔を見ていた。
「君は少し変わってるのかな?」と彼は訊いた。
「変わってないです」と僕は言った。「ごく普通の人間です。ただ冗談が面白くないだけです」
やがて書生がビールを二本とグラスをふたつ盆に載せて持ってきた。そして盆を廊下に置き、栓抜きで栓を開け、グラスにビールを注いだ。そしてまた足早にさっと何処かに行ってしまった。
「まあ、飲めよ」と彼は廊下に腰を降ろして言った。
いただきます、と言って僕はビールを飲んだ。喉が乾いていたのでビールはとても美味かった。でも車を運転しているからそれ以上は飲めない。一杯だけだ。
牧村拓の歳が幾つなのか、僕ははづきりとは知らなかったが、たぶんもう四十半ばにはなっているはずだった。それほど背は高くないが、がっしりとした体格のせいで実際よりは大男に見えた。胸が厚く、腕も首も太かった。首はいささか太すぎた。もう少し首が細かったらスポーツマン・タイブに見えなくはなかったのだろうが、顎に直結するようなそのもったりとした太さと耳の下の宿命的な肉の弛みは長い年月にわたる不摂生を表していた。そういうものはどれだけゴルフをやったところで取れないのだ。そして人は歳をとっていく。時は取り分をとっていく。僕が昔写真で見た牧村拓はほっそりとして、鋭い目をした青年だった。とくにハンサムなわけではなかったが、何かしら人目を引くものがあった。いかにも前途有望な新進作家という風貌だった。あれは何年前だろう?十五年か十六年前のことだったろうか?目つきにはまだ鋭さが残っていた。時々光線や角度によってその目は綺麗に澄んで見えることがあった。髪は短く、ところどころに白髪が混じっていた。たぶんゴルフのせいだろう、よく日焼けして、ラコステのワイン・レッドがよく肌の色にあっていた。もちろん彼はシャユのボタンは全部外していた。首が太すぎるのだ。ラコステのワイン・レッドのポロシャツを着こなすのはけっこうむずかしいのだ。首が細すぎると貧相に見える。太すぎると暑苦しく見える。兼ね合いが難しい。五反田君ならきっと上手く着こなすだろうなと僕は思った。おい、よせよ、もう五反田君のことは考えるな。
「君は何か書く仕事をしてるそうだな」と牧村拓は言った。
「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。「穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。雪かきと同じです。文化的雪かき」
「雪かき」と牧村拓は言った。そしてわきに置いたゴルフ・クラブにちらりと目をやった。
「面白い表現だ」
「それはどうも」と僕は言った。
「文章を書くのって好きか?」
「今やってることに関しては、好きとも嫌いともいえないですね。そういうレベルの仕事じゃないから。でも有効な雪かきの方法というのは確かにありますね。コツとか、ノウハウとか、姿勢とか、力の入れ方とか、そういうのは。そういうのを考えるのは嫌いではないです」
「明快な答えだな」と彼は感心したように言った。
「レベルが低いと物事は単純なんです」
「ふうん」と彼は言った。そして十五秒ほど黙っていた。「その雪かきという表現は君が考えたのか?」
「そうですね、そうだと思う」と僕は言った。
「俺がどこかで使っていいかな?その『雪かき』っていうやつ。面白い表現だ。文化的雪かき」
「いいですよ、どうぞ。別に特許をとって使ってるわけじゃないですから」
「君の言わんとすることは俺にもわかるよ」と牧村拓は耳たぶをいじりながら言った。「ときどき俺もそう感じる。こんな文章を書いて何の意味があるのかと。たまに。昔はこうじゃなかった。世界はもっと小さかった。手応えのようなものがあった。自分が今何をやっているかがちゃんとわかった。みんなが何を求めているかがちゃんとわかった。メディアそのものが小さかった。小さな村みたいだった。みんながみんなの顔を知ってた」
そしてグラスのビールを飲み干し、瓶を取って両方のグラスに注いだ。僕は断ったが、無視された。
「でも今はそうじゃない。何が正義かなんて誰にもわからん。みんなわかってない。だから目の前のことをこなしているだけだ。雪かきだ。君の言うとおりだ」彼はそう言ってまた木の幹と幹との間に張られた緑のネットを眺めた。芝生の上には白いゴルフ・ボールが三十個か四十個落ちていた。
僕はビールを一口飲んだ。
牧村拓は次に自分が何を言うべきかを考えていた。考えるのに少し時間がかかる。でも本人はあまりそのことを気にしていない。みんながじっと彼の話を待つことに慣れているからだ。仕方ないから僕も彼の話が始まるのを待っていた。彼はずっと耳たぶを指でいじっていた。それはまるで新札の束を数えているみたいに見えた。
「娘が君になついてる」と牧村拓は言った。「あれは誰にでもなつくわけじゃない。というか殆ど誰にもなつかない。俺となんかろくに口もきいてくれない。母親ともろくに口をきかないけど、少なくとも母親のことは尊敬してる。俺のことは尊敬してない。全然。馬鹿にさえしている。友達もまるでいない。何カ月前から学校にもいってない。家に籠もって一人でやかましい音楽ぱっかり聴いてる。問題児と言ってもいいくらいだし、実際担任の教師からはそう言われた。他人とうまくやっていけない。でも君にはなついてる。どうしてかな?」
「どうしてでしょうね」と僕は言った。
「気が合うのかな?」
「そうかもしれないですね」
「娘のことはどう思う?」
僕は返事をする前に少し考えてみた。まるで面接試験をうけているような気がした。正直に言うべきなんだろうなと僕は思った。「難しい年齢です。ただでさえ難しいのに、家庭環境がひどすぎて修復不可能なくらい難しくなっている。誰もその世話をしてない。誰も責任を負おうとしない。話をする相手がいない。彼女の心を開いてやることのできる人間がいない。とても傷ついている。その傷を癒してやることのできる人間がいない。両親が有名すぎる。顔が綺麗すぎる。重い荷物を背負いすぎてる。そしてちょっと普通じゃないところがあ
る。感じやすすぎるというか…ちょっと特殊なものがある。でも本来は素直な子です。きちんとかまってやれば、まともに育つ」
「でも誰もかまってない」
「そういうことですね」
彼は深く長い溜め息をついた。そして耳から手を放し、長いあいだその指先をじっと見ていた。「君の言うとおりだ。まったくそのとおりだ。でもな、俺にはどうしようもないんだよ。まず第一に、離婚したときにきちんと書類交わしてるんだ。俺は一切ユキに構わないっていうさ。しかたなかったんだ。俺もあの頃ずいぶん女遊びしてたからさ、何を言える立場にもなかった。正確に言えば、今こうしてユキに会うのにも本当ならアメの許可がいるんだよ。下らん名前だろう、アメとユキだぜ。まあ、とにかくそういうことになってるんだ。それから第二にさっきも言ったように、ユキは全然俺になついてない。何を言ったって俺の言うことなんて聞きやしない。俺にはだからどうしようもないんだよ。娘のことは可愛いさ、そりゃ。たった一人の子供だもんな。でも駄目だ。手の出しようがない」
そしてまた緑のネットを見た。タ暮れの闇はもうずいぶん深くなっていた。芝の上に散らばった白いゴルフ・ボールは籠いっぱいの関節の骨を撒き散らしたみたいに見えた。
「でもだからといって手をこまねいているわけにもいかないんじゃないですか?」と僕は言った。「母親は自分の仕事で手いっぱいで、世界中とびまわっていて、子供の事を考える暇もない。子供がいることさえしょっちゅう忘れてしまう。金も渡さないで北海道のホテルの部屋に置き去りにして、そのことを思い出すのに三日かかってる。三日ですよ。東京に連れてかえったら娘は何処にも行かずに一人でアパートの部屋に閉じ籠もって、ロックを聴いて、フライド・チキンやらケーキやらばかり食べて暮らしている。学校にも行かない。友達もいない。そんなのどう考えてもやはりまともじゃないですよ。まあ、他人の家庭のことですからね、こういうのは余計な御世話かもしれない。でもひどすぎる。あるいは僕の考え方というのは、あまりにも現実的で常識的で中産階級的にすぎるんでしょうか?」
「いや、百パーセント君の言うとおりだよ」と牧村拓は言った。そしてゆっくりと肯いた。「実にその通りだ。俺としても一言もない。二百パーセント君の言うとおりだ。そこでひとつ君に相談があるんだ。だからこそわざわざここまで来てもらった」
不吉な予感がした。馬が死んだ。インディアンの太鼓もやんだ。静かすぎる。僕は小指の先でこめかみを掻いた。
「つまりだな、君にユキの面倒を見てもらえないだろうかな」と彼は言った。「面倒を見るといっても大したことじゃない。時々あれと会ってくれるだけでいいんだ。一日に二時間か三時間。そして二人で話をして、まともな飯を一緒に食ってくれればいい。それだけでいいよ。仕事としてちゃんと金は払う。つまり言うなれば勉強を教えない家庭教師みたいなもんだと考えてくれればいい。君が今幾ら稼いでるかしらんが、それに近いものは保証できると思う。そしてそれ以外の時間は君の好きに使えばいい。ただ一日に何時間かユキに会ってほしいんだ。悪い話じゃないだろう?それについてはアメにも電話して話した。あれは今ハワイにいるんだ。ハワイで写真を撮ってる。ざっと状況を説明したら、アメも君に頼むことには賛成した。あれもあれなりにユキのことは真剣に考えてるんだぜ。ただちょっと人間が変わってるだけなんだ。神経がまともじゃない。才能はあるんだけどな、すごく。頭がときどきポッて飛んじゃうんだ。ヒューズが切れるみたいに。すると何もかも忘れちまう。現実的なことになると、からきし駄目だ。引き算もろくにできない」
「よくわからないですね」と僕は力なく微笑みながら言った。「いいですか、あの子に必要なのは親の愛情なんですよ。誰かが無償で心から自分を愛してくれるという確信なんです。そういうものを僕が彼女に与えることはできないんです。そういうことができるのは親だけなんです。そのことを、あなたもあなたの奥さんもきちんと認識するべきです。それが第一。第二に、あの年代の女の子にはどうしても同じ年代の同性の友人が必要です。シンパシーを感じあえていろんなことをストレートに話しあえる同性の友人、そういう相手がいるだけでずいぶん楽になる。僕は男だし、歳も離れ過ぎている。それにですね、だいたいあなたも奥さんも僕のことなんか何も知らないじゃないですか?十三の女の子といえばある意味ではもう大人ですよ。とても綺麗で、おまけに精神的に不安定な女の子だ。そんな子を何処の誰だかわからない男に託していいものなんですか?僕について何を知っているんですか、いったい?僕はさっきまで殺人に絡んで警察に引っ張られてたんですよ。もし僕が犯人だったらどうするんですか?」
「君が殺したのか?」
「まさか」と僕は溜め息をついて言った。親子で同じ質問をする。「殺してなんかいないですよ」
「じゃあ、いいじゃないか。俺は君のことを信用してる。君が殺してないっていうんなら、殺してないんだろう」
「どうして信用できるんですか?」
「君は人を殺すタイプじゃない。それに少女強姦するタイプでもない。それくらいは見ればわかる」と牧村拓は言った。「それに俺はユキの勘を信じてる。あの子にはね、昔からものすごく勘の鋭いところがあったんだ。普通の勘の鋭さとはちょっと違う。何というかな、時々気持ち悪くなるくらい鋭いんだ。霊媒みたいなところがある。一緒にいると、俺の見えない物をあれが見ているように感じることがたまにある。そういう感じってわかるか?」
「なんとなく」と僕は言った。
「そういうのは母親譲りだと思うんだよ。そういうエキセントリックなところ。ただし母親の方は芸術にそれを集中させている。そうすると、人はそれを才能と呼ぶ。しかしユキはそういう集中させるべきものをまだ持っていない。ただ無目的に溢れてるんだ。桶から水が溢れるみたいに。霊媒みたいなもんだよ。母親の系統の血だな、あれは。俺にはそういうところはあまりない。全然ない。エキセントリックじゃない。だから母親も娘も俺のことなんかろくに相手にしない。俺もあの二人と一緒に暮らすのはいささか疲れた。当分女の顔は見たくない。君にはきっとわからんぜ、あのアメとユキと一緒に暮らすのがどういうことかというのは。アメとユキだぜ、下らん。まるで天気予報だ。でも俺はもちろん二人とも好きだよ。今でも時々アメに電話して話しする。でもな、二度と一緒に暮らしたいとは思わんよ。あれは地獄だ。俺に作家としての才能があったとしてもーーあったんだーーあの生活のせいできれいさっぱり消えたよ。正直言って。でも才能のなくなったわりには俺はよくやってきたと自分でも思うけどな。雪かきだ。君の言う有効な雪かきだ。上手い表現だ。何を話していたっけな?」
「僕が信用できるかどうかってことでしたが」
「そう。俺はユキの勘を信用する。ユキは君を信用している。だから俺は君を信用する。君も俺を信用していい。俺はそんな悪い人間じゃない。ときどきろくでもない文章を書くけど、悪い人間ではない」彼はまた咳払いして唾を地面に吐いた。「どう、やってくれないかな?そのユキの面倒を見ることを?君の言うことは俺にだってよくわかるさ。そういうことするのは確かに親の役目だ。でもあれはね、ちょっと普通じゃないんだ。さっきも言ったように手の打ちようがないんだ。君しか頼れる相手がいない」
僕は自分のグラスの中のビールの泡をしばらく眺めていた。どうすればいいのか、僕にもよくわからなかった。不思議な一家だ。三人の変人と書生のフライデー。宇宙家族ロビンソンみたい。
「彼女とときどき会うのはかまいません」と僕は言った。「ただし毎日は会えない。僕にもやらなくちゃならないことがあるし、義務的に人に会うのは好きではない。会いたいときに会います。金は要りません。今のところ金には困ってないし、彼女と友達として付き合うからには僕がそれくらいの金は払います。そういう条件でしか引き受けようがないですね。彼女のことは僕も好きだし、会えれば僕としても楽しいでしょうね。でも何の責任も持てませんよ。それはいいですね。彼女がどうなったとしても、最終的な責任は言うまでもなくあなた方にあるんですからね。それをはっきりさせておくためにも金はもらえないですね」
牧村拓は何度か肯いた。耳の下の肉が揺れた。ゴルフではその肉のたるみは取れない。もっと根本的な生活の転換が必要なのだ。でもそれは彼にはできないだろう。できていればもっと前にやっているはずだ。
「君の言いたいことはよくわかるし言ってることの筋も通ってる」と彼は言った。「君に責任を押し付けようとしているわけではない。責任なんか感じることはない。我々には君以外に選択肢がないからこうして頭を下げてお願いしてるんだ。責任云々なんてことは何も言ってない。金のことはまたいつかその時になったら考えよう。俺は借りは忘れずにちゃんと返す人間だからな。それだけは覚えておいてくれ。でも今はまあ君の言うとおりかもしれん。君にまかせる。君の好きなようにすりゃいい。金が必要だったら俺のところか、あるいはアメのところか、どちらでもいいから連絡してくれ。どっちも金には困ってない。遠慮しなくていい」
僕は何も言わなかった。
「みたところ君もなかなか頑固そうな男だな」と彼は言った。
「頑固ではないです。僕には僕なりの考え方のシステムというものがあるだけです」
「システム」と彼は言った。そしてまた耳たぶを指でいじった。「もうそういうものはあまり意味を持たないんだよ。手作りの真空管アンプと同じだ。手間暇かけてそんなもの作るよりはオーディオ・ショップに行って新品のトランジスタ・アンプを買った方が安いし、音だって良いんだ。壊れたらすぐ修理に来てくれる。新品を買う時には下取りだってしてくれる。考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない。そういうものが価値を持っていた時代もたしかにあった。でも今は違う。何でも金で買える。考え方だってそうだ。適当なのを買ってきて繋げばいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。AをBに差し込めばいいんだ。あっという間にできる。古くなったら取り換えりゃいい。その方が便利だ。システムなんてことにこだわってると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
「高度資本主義社会」と僕は要約した。
「そうだ」と牧村拓は言った。そしてまたしばらく沈黙の中に沈みこんだ。
あたりはずいぶん暗くなっていた。近くで犬が神経質そうに吠えていた。誰かがつっかえながらモーツァルトのピアノ・ソナタを弾いていた。牧村拓は廊下に座って脚を組み、何事かじっと考えながらビールを飲んでいた。東京に帰って以来どうも奇妙な人間にばかり会ってるな、と僕は思った。五反田君、二人のハイ・クラスの娼婦(一人は死んだ)、二人組のタフな刑事、牧村拓と書生のフライ一デー。暗い庭を眺めながらぼんやりと犬の声やピアノの音に耳を澄ませていると、現実がだんだん溶解して闇の中に溶けて吸い込まれていってしまうような気がした。いろんな物がその本来の形を失って混ざりあい、意味を失ってひとつのカオスとなる。キキの背中を撫でる五反田君の優雅な指も、雪の降りしきる札幌の街も、「かっこう」と言う山羊のメイも、刑事がぱたぱたと手のひらを叩いていたブラスティックの定規も、暗い廊下の奥でじっと僕を待っている羊男の姿も、何もかもが溶けてひとつになっていった。疲れているんだろうか?と僕は思った。でも疲れてはいなかった。ただ現実がすうっと溶けていっているだけなのだ。溶けて一つの丸いカオスの球になっている。まるである種の天体みたいなかたちに。そしてピアノが鳴って、犬が吠えている。誰かが何かを言っている。誰かが何かを僕に言っている。
「なあ」と牧村拓が僕に話しかけていた。
僕は顔を上げて彼を見た。
「君はその女の事を知ってたんじゃないのか?」と彼は言った。「その殺された女の事を。新聞で読んだ。ホテルで殺されたんだろう。身元不明って書いてあった。名刺だけが一枚財布に入ってて、その人物に事情を聞いていると出てた。君の名前は出てなかった。弁護士の話だと君は警察では何も知らないと突っ張っていたらしいが、でも知らないわけじゃないんじゃないか?」
「どうしてそう思うんですか?」
「ただふと、さ」彼はゴルフ・クラブを手にとって刀のようにまっすぐに前にのばしてそれをじっと眺めた。「そういう気がしたんだ。何かをかばっているように俺には感じられる。ふとね。君と話していると、だんだんそういう感じがしてくる。細かいことにいちいちこだわるくせに、大きなことに対しては妙に寛大になる。そういうパターンが見えてくる。面白い性格だ。そういう意意味はユキに似てるよ。生き延びるのに苦労する。他人に理解されにくい。転ぶと命取りになる。そういう意味では君らは同類だよ。今度のことだってそうだぞ。警察は甘くないからな。今度は上手くいったが、次も上手く行くとは限らんぜ。システムもいいが、突っ張ると怪我することが多い。もうそういう時代じゃあないんだよ」
「突っ張ってるわけでもないんです」と僕は言った。「ダンス・ステップみたいなもんです。習慣的なものです。体が覚えてるんです。音楽が聞こえると体が自然に動く。回りが変わっても関係ないんです。すごくややこしいステップなんで、回りのことを考えてられないんです。あまりいろんなことを考えると踏み違えちゃうから。ただ不器用なだけです。トレン一アディーじゃない」
牧村拓はまた黙ってゴルフ・クラブを睨んでいた。
「変わってる」と彼は言った。「君は俺に何かを連想させる。何だろう?」
「何でしょうね?」と僕は言った。何だろう?ピカソの『オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士』だろうか?
「でも俺は君のことが結構気にいったし、君という人間を信用するよ。悪いがユキの面倒は見てくれ。いつかきちんと礼はする。俺は借りは必ず返す人間だよ。そのことはさっき言ったよな?」
「聞きました」
「じゃあそれでいい」と牧村拓は言った。そしてゴルフ・クラブをそっと縁側に立てかけた。「結構」
「新聞には他にどんなことが出てました?」と僕は訊いた。
「他には殆ど何も出てないよ。ストッキングで絞殺された。一流ホテルというのは都会の盲点なんだと書いてあった。名前も何もわからない。身元を調べているとあった。それだけだ。よくある事件だよ。すぐにみんな忘れる」
「そうでしょうね」と僕は言った。
「でも忘れない人間もいる」と彼は言った。
「たぶん」と僕は言った。

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