ダンス・ダンス・ダンス

二人の刑事はやがて部屋に入ってきたが、今度はどちらも腰掛けなかった。僕はまだぼんやりと黴を眺めていた。
「あんた帰っていいですよ、もう」と漁師が無表情な声で僕に言った。
「帰っていい?」と僕は唖然として聞きかえした。
「御苦労さんでした」
「もう質問が終わったの。おしまい」と文学が言った。
「いろいろと事情が変わったのよ」と漁師が言った。「これ以上あんたをこ こに置いておけなくなった。だから帰っていいです。御苦労さん」
僕はすっかり煙草臭くなってしまったジャケットを着て、椅子から立ち上がった。何だかよくわけがわからないけれど、何にせよ相手の気が変わらないうちにさっさと帰ってしまった方がよさそうだった。玄関まで文学が送ってくれた。
「あのね、あんたがシロだってことは、昨日の夜にもうわかってたんですよ」と彼は言った。「鑑識と解剖の結果が出て、あんたとは全く繋がりがみつからなかった。残っていた精液の血液型も違ってた。あんたの指紋も出なかった。でもね、あんたは何か隠してたね。だから置いておいたんです。それを吐き出すまでもう少し叩いてみようって。何か隠してることは我々にはわかるんだ。勘ですよ。職業的な勘。あの女が誰か、ヒントくらいは持ってるでしょう?でも何かの理由でそれを隠している。いけないことだよ。俺たちそんな甘くないよ。プロだから。だいたい人が一人殺されてるんだ」
「悪いけど何を言ってるのかよくわからない」と僕は言った。
「また来てもらうことになるかもしれんですよ」と彼はポケットからマッチを出して、マッチ棒で爪の甘皮を押しながら言った。「やるとなると、我々はしつこいからね。今度は横から弁護士が出てきてもびくともしないくらいびしっと準備してやる」
「弁護士?」と僕は訊いた。
でもその時、彼はもう建物の中に姿を消していた。僕はタクシーを拾って家に帰った。そして浴槽に湯をはって、ゆっくりとそこに身を沈めた。歯を磨き、髭を剃り、頭を洗った。体中が煙草臭かった。ひどい場所だった、と僕は思った。蛇の穴みたいだ。
風呂を出ると僕はカリフラワーを茹で、それを食べながらビールを飲み、アーサー・ブライソックがカウント・ベイシー・オーケストラをバックに唄うレコードを聴いた。無反省にゴージャスなレコード。十六年前に買った。一九六七年。十六年間聴いている。飽きない。
それから僕は少し眠った。ちょっとどこかに行って、回れ右して引き返してくるような眠りだった。二十分かそこらのものだ。目が覚めて時計を見ると、まだ一時だった。僕は水着とタオルをバッグに入れて、スバルに乗って千駄ケ谷の室内ブールに行き、一時間みっちりと泳いだ。それでやっと人間らしい気持ちになれた。食欲も少し出てきた。僕はユキに電話をかけてみた。彼女はいた。やっと警察から解放されたんだ、と僕は言った。それはよかったわね、と彼女はクールに言った。昼御飯は食べたかと僕は聞いてみた。食べてないと彼女は言った。朝からシュークリームを二個食べただけ、と彼女は言った。相変わらずひどい食生活だ、と僕は思った。今から迎えに行く、何か食べにいこう、と僕は言った。うん、と彼女は言った。
僕はスバルに乗って外苑を回り、絵画館前の並木道を通って、青山一丁目から乃木神社に出た。日一日と春の気配は濃くなっていた。僕が赤坂警察署に二泊している間にも、風の感触は穏やかになり、木々の葉は目に見えて青みを増し、光は丸みを帯び柔らかくなっていた。都市の騒音さえもがアート・ファーマーのフリューゲル・ホーンみたいに優しく聞こえた。世界は美しく、腹も減っていた。こめかみの奥のいびつな形をしたこわばりもいつの間にか消えていた。
僕が玄関のベルを押すと、ユキはすぐ下におりてきた。彼女は今日はデヴィッド・ボウイのトレーナーシャツを着て、その上に茶色の揉み革のジャンパーを着ていた。そしてキャンバス地のショルダー・バッグを下げていた。ショルダー・バッグにはストレイ・キャッツとスティーリー・ダンとカルチュア・クラブのバプッがついていた。奇妙な組み合わせだったが、まあ何でもいいのだろう。
「警察は楽しかった?」とユキは訊いた。
「ひどかった」と僕は言った。「ボーイ・ジョージの唄と同じくらいひどかった」
「へえ」と彼女は無感動に言った。
「今度エルヴィス・プレスリーっていうバッジ買ってあげるから、つけかえたら」と僕はショルダー・バッグのカルチュァ・クラブのバッジを指して言った。
「変な人」と彼女は言った。いろんな言い方がある。
僕はまず彼女をまともな店に連れていって、ホール・ホイートのパンで作ったロースト・ビーフ・サンドイッチと、野菜サラダを食べさせ、まっとうで新鮮なミルクを飲ませた。僕も同じ物を食べ、コーヒーを飲んだ。美味いサンドイッチだった。ソースがさっぱりとして肉が柔らかく、本物のホースラディッシュ・マスタードを使っている。味に勢いがある。こういうのを食事というのだ。
「さて、これから何処に行こうか?」と僕はユキに訊いた。
「辻堂」と彼女は言った。
「いいよ」と僕は言った。「辻堂に行こう。でもどうして辻堂なんだろう?」
「パパの家があるから」とユキが言った。「あなたに会いたいんだって」
「僕に?」
「あの人、そんなに悪い人じゃないわよ」
僕は二杯目のコーヒーを飲みながら首を振った。「何も悪い人だなんて言ってない。でも君のお父さんがどうしてわざわざ僕に会いたがるんだろう?君が僕のことをお父さんに話したの?」
「そう。電話したの。そしてあなたに北海道から連れて帰ってもらったこと話して、今あなたが警察に連れていかれて帰してもらえないで困ってるって言ったの。それでパパが知り合いの弁護士に警察にあなたの事を問い合わせてもらったの。あの人そういうつきあいが広いのよ。かなり現実的な人だから」
「なるほどね」と僕は言った。「そういうことか」
「役に立ったでしょ?」
「役に立ったよ。実に」
「パパは言ってたけど、警察にはあなたをひきとめておくような権利はなかったんですって。帰ろうと思えばあなたはいつでも自由に帰れたのよ。法律的には」
「知ってたよ、そのことは」と僕は言った。
「じゃあ、どうして帰ってこなかったの?もう帰りますって」
「むずかしい問題だ」と僕は少し考えてから答えた。「あるいは自己を罰していたのかもしれない」
「普通じゃないわね」と彼女は頬杖をついて言った。いろんな言い方がある。
僕らはスバルに乗って辻堂まで行った。午後も遅くなっていたので、道路は空いていた。彼女はショルダー・バッグからいろんなテープを出してかけた。ボブ・マーリーの『エキソダス』からスティックスの『ミスター・ロボット』まで、実に様々な種類の音楽が車内に流れた。面白いものもあれば、下らないものもあった。でもそういうのは景色と同じなのだ。右から左にどんどん過ぎ去っていく。ユキは殆ど口をきかずにシートにゆったりともたれて音楽を聴いていた。ダッシュボードにあった僕のサングラスをとって、それをかけ、途中でバージニア・スリムを一本吸った。僕も黙って運転に神経を集中していた。細かくギャを変え、ずっと先の路面を眺めていた。交通標識をひとつひとつ丁寧にチェックした。
時々彼女のことがうらやましくなった。彼女が今十三歳であることが。彼女の目にはいろんな物事が何もかも新鮮に映るのだろう。音楽や風景や人々が。それは僕が見ているものの姿とはまるで違っているだろう。僕だって昔はそうだった。僕が十三歳の頃、世界はもっと単純だった。努力は報いられるはずのものであり、言葉は保証されるはずのものであり、美しさはそこに留められるはずのものであった。でも、十三歳の時の僕はそれほど幸せな少年ではなかった。僕は一人でいることを好み、一人でいるときの自分を信じることができたけれど、当然ながら大抵の場合一人にはなれなかった。家庭と学校という二種類の強固な枠の中に閉じ込められて、僕は苛立っていた。苛立ちの年だった。僕は女の子に恋をしていて、それはもちろん上手く行かなかった。何故なら恋がどういうものかということさえ僕は知らなかったのだから。僕は彼女と殆どまともに口をきくことすらできなかった。僕は内気で不器用な少年だった。教師や親の押し付けてくる価値観に異議を唱え反抗しようとしていたが、異議申し立ての言葉が上手く出てこなかった。何をやっても手際良く行かなかった。何をやっても手際良く行く五反田君とは全く逆の立場の人間だった。でも、僕は物事の新鮮な姿を見ることはできた。それは素敵なことだった。匂いがきちんと匂い、涙は本当に温かく、女の子は夢のように美しく、ロックンロールは永遠にロックンロールだった。映画館の暗闇は優しく親密であり、夏の夜はどこまでも深く、悩ましかった。それらの苛立ちの日々を僕は音楽や映画や本とともに過ごした。サム・クックやリッキー・ネルソンの唄の歌詞を覚えて過ごした。僕は自分一人の世界を構築し、そこの中で生きていた。それが僕の十三歳だった。そして五反田君と同じ理科の実験班にいた。彼は女の子たちの熱い視線を浴びてマッチを擦り、ガスバーナーに優雅に火をつけていた。ボッと。
どうして彼が僕をうらやましがらなくてはならないのだ?
わからない。
「ねえ」と僕はユキに声をかけた。「羊の皮を着ていた人の話を聴かせてくれないかな?何処で君はその人に会ったの?そしてどうして僕がその人に会ったことを知っているの?」
彼女は顔をこちらに向け、サングラスをとってダッシュボードに戻した。そして肩を小さくすくめた。「その前にまず私の質問に答えてくれる?」
「いいよ」と僕は言った。
ユキはしばらく二日酔いの朝みたいに薄暗くて物哀しいフィル・コリンズの唄にあわせてハミングしてから、もう一度サングラスを手にとってつるをいじった。「あのね前にあなた北海道で私に言ったでしょう?これまでにデートしたことのある女の子の中で私がいちばん綺麗だって」
「確かにそう言った」と僕は言った。
「あれ本当なの?それとも私の機嫌を取るためのものだったの?正直に言ってほしいんだけど」
「本当だよ。嘘じゃない」と僕は言った。
「何人くらいの人とデートしたのかしら、これまで?」
「数知れず」
「二百人くらい?」
「まさか」と僕は笑って答えた。「僕にはそれほどの人気はない。まったく人気がないというわけでもないけど、どちらかと言うとすごく局地的なんだ。幅が狭くて、ひろがりに欠ける。せいぜい十五人くらいのものじゃないかな」
「そんなに少しなの?」
「みじめな人生なんだ」と僕は言った。「暗くって、湿ってて、狭い」
「局地的」とユキは言った。
僕は肯いた。
彼女はそういう人生について少し考えを巡らせていた。でもうまく理解できないようだった。仕方ない。まだ若すぎるのだ。「十五人」と彼女は言った。
「だいたい」と僕は言った。そしてもう一度三十四年のささやかな人生を振り返ってみた。「だいたいそれくらい。多くてもせいぜい二十人くらいのものだろうな」
「二十人か」とユキはあきらめたように言った。「でもまあとにかくその中で私がいちばん綺麗だったのね?」
「そう」と僕は言った。
「綺麗な人とはあまり付き合わなかったの?」と彼女は訊いた。そして二本目の煙草に火をつけた。交差点に警官の姿が見えたので、僕はそれを取り上げて窓から捨てた。
「けっこう綺麗な女の子ともデートした」と僕は言った。「でも君の方が綺麗だ。嘘じゃないよ。こういう言い方が理解できるかどうかわからないけれど、君の綺麗さは独立して機能してる綺麗さなんだ。他の子とは全然違う。でもお願いだから車の中で煙草吸わないで。外から見えるし、車も臭くなる。前にも言ったように女の子が小さい時から煙草を吸い過ぎると大きくなって生理不順になる」
「馬鹿みたい」とユキは言った。
「羊の皮をかぶった人の話をして」と僕は言った。
「羊男のことね?」
「どうして知ってるの、その名前を?」
「あなたが言ったのよ、このあいだ電話で。羊男って」
「そうだっけ?」
「そうよ」とユキは言った。
道路は渋滞していて、僕は信号を二回ずつ待たなくてはならなかった。
「羊男の話をして。何処で羊男に会ったの?」
ユキは肩をすぼめた。「私、その人に会ったわけじゃないの。ただふとそう思っただけなの。あなたを見ていて」そして細いまっすぐな髪を指にくるくるとまきつけた。「そういう感じがしたの。羊の皮をかぶった人がいるような。そういう気配がしたの。あなたにあのホテルで会う度に、そういう風に感じたの。だからそう口に出して言ってみたの。それについてとくに何かを知ってるってわけではないの」
僕は信号待ちをする間そのことについてしばらく考えてみた。考える必要がある。頭のねじを巻く必要がある。きりきりと。
「そう思った、ということは」と僕はユキに聞いた。「つまり君にはその姿が見えたっていうことかな、羊男の姿が?」
「うまく言えない」と彼女は言った。「どう言えばいいのかな。その羊男という人の姿が目にありありと浮かぶというんじゃないの。わかるかな?何かこう、そういうものを見た人の感情がこっちに空気みたいに伝わってくるのよ。それは目には見えないものなの。目には見えないんだけど、それを私は感じて、かたちに置き換えることができるの。でもそれは正確にはかたちじゃないの。かたちのようなものなの。もし誰かにそれをそのまま見せることができたとしても、他の人には何がなんだかわからないと思う。それはつまりね、私だけにしかわからないかたちなの。ねえ、上手く説明なんかできないわよ。馬鹿みたいだわ。ねえ、私の言ってることわかる?」
「漠然としかわからない」と僕は正直に言った。
ユキは眉をしかめながら僕のサングラスのつるを噛んでいた。
「つまり、こういうことなのかな?」と僕は聞いてみた。「君は僕の中にある、あるいは僕にくっついて存在している感情なり思念なりを感じとって、それを例えば象徴的な夢みたいに映像化できるということ?」
「思念?」
「強く考えられたこと」
「そうね、そうかもしれない。強く考えられたことーーでもそれだけじゃない。その強く考えられたことを作り出したもの、そういう物があるの。そのとても強い何か。思いを作り出す力と言えばいいのかしら、そういう物があると私はそれを感じちゃうの。感応するんだと思う。そしてそれを、私なりに、見るの。でも夢のようにではない。空っぽの夢。そう、そういうこと。空っぽの夢なの。そこには誰もいない。何の姿も見えない。ほら、TVのコントラストをすごく暗くしたり、すごく明るくしたりしたときと同じ。何も見えない。でもそこには誰かがいるのね。じっと目を凝らすと。それを感じるの。そこにいるのは羊の皮をかぶった人だって。悪い人じゃない。いや、それは人でさえないって。でも悪いものじゃない。でも見えない。あぶりだした絵みたいに、それはそこにあるの。見えないけれど、わかるの。見えないものとして見えるの。かたちのないかたちなの」彼女は舌打ちした。「ひどい説明」
「いや、君は上手く説明してるよ」
「本当?」
「とても」と僕は言った。「君の言いたいことはわかるような気がする。僕がそれを呑みこむのに時間がかかるだけだ」
町中を抜けて辻堂の海にでると、僕は松林のわきの駐車スベースの白い線の中に車を停めた。車の姿は殆どなかった。少し歩こうと僕はユキに言った。気持ちの良い四月の午後だった。風らしい風もなく、波も穏やかだった。まるで沖の方で誰かがシーツをそっと揺すっているみたいに小さく波が寄せ、そして引いていった。静かで規則正しい波だった。サーファーはあきらめて陸に上がり、ウェット・スーツを着たまま砂浜に座って煙草をふかしていた。塵を焼く焚き火の白い煙が殆ど真っ直ぐに空に向けてたちのぼり、左手には江ノ島が蜃気楼のようにぼんやりとかすんで見えた。大きな黒い犬が思いつめたょうな顔つきで波打ち際を右から左に向けて小走りに均等な歩調で通りすぎていった。沖合には何隻か漁船が浮かび、その上空を白い渦巻きのように音もなく鴎の群れが舞っていた。海にも春の気配が感じられた。
僕らは海岸の歩行者道路を散歩した。ジョガーや自転車に乗った女子高校生とすれちがいながら、藤沢の方に向けてのんびりと歩き、適当なところで砂浜に座って二人で海を眺めた。
「よくそういうことは感じるの?」と僕は彼女に聞いてみた。
「そんなにしょっちゅうじゃない」とユキは言った。「たまに。たまにしか感じないの。そういうことを感じる相手ってそんなに沢山はいないの。ちょっとだけ。でもなるべくそういう風に感じることは避けるようにしてるの。何か感じてもなるべくそのことは考えないようにしてるの。何か感じそうになったらぱっと閉じちゃうようにしてるの。だいたいそういう時って感じでわかるから。閉じちゃうと、深くは感じなくてすむの。目を閉じるのと同じ。感覚を閉じちゃうの。そうしたら何も見えない。何かがあることはわかる。でも見えない。そのままじっとしてれば、何も見なくてすむ。ほら映画なんかで怖いものが出てきそうになると目を閉じるでしょう、あれと同じこと。それが通りすぎてしまうまで閉じてるの。じっと」
「どうして閉じちゃうの?」
「嫌だから」と彼女は言った。「昔はーーもっと小さい頃はーー閉じなかった。学校でもね、何か感じたらそれを口に出してた。でもそうすると、みんなが気持ち悪がるの。つまりね、誰かが怪我しそうだってわかるの。それで、友達に『あの人怪我するわよ』って言うと、結局その人ちゃんと怪我するの。そういうことが何度かあって、それ以来みんな私のことお化けみたいに扱うようになったの。『お化け』って呼ばれたことだってあるのよ。そういう評判が立ったの。それで私すごく傷ついたわ。だからそれ以来もう何も言わないことにしたの。誰にも何も言わないの。見えそうになったら、感じそうになったら、すっと自分を閉じちゃうの」
「でも僕の時は閉じなかったんだね?」
彼女は肩をすぼめた。「なんだか突然だったの。警戒する暇もなかった。突然ふっと、そのイメージみたいなのが浮かんだの。最初にあなたに会った時。ホテルのバーで。私が音楽聴いていて、ロック聴いて……何だっていいのよデュランデュランだろうがデヴィッド・ボウイだろうが……うん、音楽をじっと聴いてる時ってそうね。あまり警戒してないの。リラックスしてるの。だから音楽って好きよ」
「予知能力があるっていうことなんだろうか?」と僕は訊いた。「たとえばその、怪我をすることがわかるとか、そういうのは?」
「どうかしら。そういうのとはまた少し違うと思うな。私は予知するわけではなくて、そこにあるものをただ感じ取るだけなの。でもなんて言うのかな、何かが起こるには起こるための雰囲気みたいなのがあるでしょう。わかるかな?たとえば鉄棒をやってて怪我する人って、何かしら油断とか過信とかそういうのがあるでしょう?はしゃいで調子に乗っているとか。そういう感情の波のようなものが、私にはすごく敏感に感じとれるの。そしてそういう感情の波が、こう、空気の塊りみたいになるの。そしてこれは危ない、と思うわけ。そうすると空っぼの夢みたいなのがふっと出てくるの。それが出てくると……起こるのよ、それが。予知じゃないの。もっとぼんやりとしたものなの。でもそれは起こるの。見えるのよ。でももう何も言わない。何か言うとみんな私をお化けって呼ぶから。ただ見てるの。ここでこの人は火傷するんじゃないか、って。すると火傷するの。でも私には何も言えないの。そういうのって、ひどいでしょう?自分が嫌になってしまうの。だから閉じる。閉じちゃえば、自分が嫌にならないで済むし」
彼女はしばらく手に砂をとって遊んでいた。
「羊男は本当にいるの?」
「本当にいるよ」と僕は言った。「あのホテルの中には彼の住んでいる場所があるんだ。ホテルの中にもうひとつ別のホテルがある。それは普通では見えない場所なんだ。でもそれはちゃんとそこに残されている。僕の為に残されているんだ。それは僕の為の場所だからだよ。彼はそこで生きていて、僕といろんな物事を繋げているんだ。それは僕のための場所で、羊男は僕のために働いている。彼がいないと、僕はいろんなものとうまく繋がらない。彼がそういうのを管理してるんだ。電話の交換手みたいに」
「繋げる?」
「そう。僕が何かを求める。何かを繋げようと思う。彼がそれを繋げる」
「よくわからない」
僕もユキと同じように砂をすくって、指のあいだから落とした。
「僕にもまだよくわからない。でも羊男が僕にそう説明してくれた」
「ずっと昔から羊男はいたの?」
僕は肯いた。「うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてたんだ。僕が年を取るにつれてね。何故だろう?僕にもわからない。たぶんそうする必要があったからだろうね。年をとって、いろんなものをなくしちゃったから、そうする必要が出てきたんだろうな。生きていくために、そういうものの助けが必要になったんだろう。でも僕にもはっきりとはわからないよ。別の理由があるのかもしれない。それについてずっと考えている。でもわからない。馬鹿みたいだ」
「そのこと、他の誰かに話した?」
「いや、話してない。そんなこと話しても誰も信じないだろうしね。誰も理解しない。それに僕には上手く説明できない。君に話したのが初めてだよ。君になら話せそうな気がしたんだ」
「私もきちんとこういう風に説明したのはあなたが初めて。ずって黙っていたの。パパもママもある程度知ってはいるけど、私の方から話したことはないの。ずっと小さい時からそういうことは話さない方がいいんだっていう気がしてたの。本能的に」
「話しあえてよかった」と僕は言った。
「あなたもお化け組の一人なのよ」とユキは砂をいじりながら言った。
車を停めたところまで歩いて戻るあいだに、ユキは学校の話をした。中学校がどれほどひどいところだったかということを彼女は話した。
「夏休みからずっと学校に行ってないの」と彼女は言った。「勉強が嫌いなわけじゃないの。ただあそこの場所が嫌いなの。我慢できないの。学校に行くと気分が悪くなってすぐ吐いちゃうの。毎日吐いてたわ。吐くとそのことでまた苛められるの。みんなが苛めるのよ。先生まで一緒になって苛めるの」
「僕が同級生だったら、君みたいな綺麗な子は絶対苛めないけどね」
ユキはしばらく海を眺めていた。「でも逆に綺麗だから苛めるってこともあるんじゃないかしら?それに私、有名人の子供だし。そういうのって、すごく大事にされるかすごく苛められるか、どちらかなの。そして私はあとの方なの。みんなと上手くやっていけないの。私はいつも緊張してなくちゃならないの。ほら、いつでもすっと心を閉じられるようにしてなくちゃならないでしょう?でもそういうのって誰にもわからない。私がいつもそういう風にびくびくしてなくちゃいけないという理由がね。びくびくしてると、カモみたいに見えるの。そして苛めるの。すごく嫌らしいやりかたで。信じられないくらい嫌らしいの。すごく恥ずかしいことするの。そんなことできるなんて信じられないようなこと。だって……」
僕はユキの手を握った。「大丈夫だよ」と僕は言った。「そんなつまらないこと忘れなよ。学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくないなら行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌な奴がでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八○パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやりかたで生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴が良い成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そういうことって変わらないんだ」
「本当にそう思う?」
「もちろん。学校のくだらなさについてなら一時間だってしゃべれる」
「でも義務教育よ、中学校って」
「そういうことは誰か他の人が考えることで、君の考えることじゃない。みんなが君を苛めるような場所に行く義務なんて何もない。まったくない。そういうのを嫌だという権利は君にあるんだよ。大きな声で嫌だと言えばいいんだ」
「でもそれから先はどうなるの?ずっとこういう事の繰り返しなの?」
「僕も十三の時はそういう風に思ったこともあった」と僕は言った。「こんなままの人生が続くんじゃないかって。でもそんなことない。何とかなる。何とかならなかったら、またそのときに考えればいい。もう少し大きくなれば恋もする。ブラジャーも買ってもらえる。世界を見る目も変わってくる」
「あなたって馬鹿ね」と彼女はあきれたように言った。「あのねえ、最近の十三の女の子はみんなブラくらい持ってるわよ。あなた半世紀くらい遅れてるんじゃない?」
「へえ」と僕は言った。
「うん」とユキは言った。そしてもう一度確認した。「あなた馬鹿よ」
「そうかもしれない」と僕は言った。
彼女はそのまま何も言わずに僕の前に立って車まで歩いた。

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