ダンス・ダンス・ダンス

彼らは午後の三時過ぎにやってきた。二人連れだった。僕がシャワーを浴びている時にドア・ベルが鳴った。僕がバスローブを着て、ドアを開けるまでにドア・ベルは八回も鳴った。苛立ちが肌につきささってくるような鳴らし方だった。僕がドアを開けると、男が二人立っていた。一人は四十代半ばに、もう一人は僕と同じくらいの歳恰好に見えた。年上の方が背が高く、鼻に傷あとがあった。まだ春の始めだというのによく日焼けしていた。漁師のような深い現実的な日焼けだった。グアムのビーチとか、スキー場で焼いたわけではない。髪は見るからに硬そうで、手がいやに大きかった。彼はグレーのオーバーコートを着ていた。若い方は背が低く、髪が長めだった。目が細く、鋭かった。一昔前の文学青年みたいに見えた。同人誌の集まりで額の髪をかきあげて「やはり三島だよ」と言ったりしそうな雰囲気がある。昔、大学のクラスにも何人かこういうのがいた。こちらは紺のステン・カラーのコートを着ていた。どちらもあまりファッショナブルとは言えない黒い革靴を履いていた。道に落ちていたらよけて通りたくなるような代物だった。安物で、しかもくたびれている。どちらの紳士も僕がとくに積極的に友達になりたいと思うようなタイプではなかった。「漁師」と「文学」と僕はとりあえず名前をつけた。
文学がコートのポケットから警察手帳を出して何も言わずに僕に見せた。映画みたい、と僕は思った。僕はそれまで警察手帳なんて見たこともなかったけれど、一見してそれは本物であるように感じられた。くたびれかたが革靴のくたびれかたによく似ていたからだ。でも彼がコートのポケットから出してさしだすと、なんだか同人誌を売りつけられているような気がした。
「赤坂署のものです」と文学が言った。
僕は肯いた。
漁師はオーバーコートのポケットに両手をつっこんだまま一言も口をきかなかった。ただ何気なく戸口に片足を置いていた。ドアが閉められないように。やれやれ、本当に映画みたいだ。
文学は手帳をポケットにしまい、それからひととおり僕の格好を点検した。髪は濡れたままで、バスローブしか着ていない。グリーンのレノマのバスローブ。もちろんライセンス生産だけど、背中を向けるとちゃんとレノマと書いてある。シャンプーはウェラ。人に恥じるところは何もない。だから僕は相手が何かを言い出すのをじっと待っていた。
「実はちょっと伺いたいことがあるんです」と文学が言った。「それで申し訳ありませんが、できましたら署まで御足労願えませんでしょうか」
「訊きたいって、何について?」と僕は質問してみた。
「それはまたあとで、その時にお話しします」と相手は言った。「ただお話を何うのにいろいろと形式とか書類とかが必要なものですから、まあ出来れば署の方においでいただきたいということなんです」
「着替えてもいいんでしょうね?」と僕は訊いてみた。
「もちろんどうぞ」と文学は表情も変えずに言った。とても平板な声で、とても平板な表情だった。五反田君が刑事をやったらもっとリアルにもっと上手くやれるだろうにな、と僕はふと思った。現実というのはそういうものなのだ。
僕が奥の部屋で着替えている間、二人はドアを開けたまま戸口に立っていた。僕はお馴染みのブルージーンズにグレーのセーターを着て、ツイードのジャケットを着た。髪を乾かしてとかし、財布と手帳とキイ・ホルダーをポケットに入れ、窓を閉め、ガスの元栓を閉め、電気を消し、留守番電話のスイッチをオンにした。そして紺のトップサイダーを履いた。二人は僕が靴を履くのを珍しそうにじっと見ていた。漁師はまだ戸口に片足を置いていた。
アパートの入り口から少し離れたところに目立たないようにパトカーが停まっていた。ごく普通のパトカーで、運転席に制服の警官が座っていた。漁師が先に乗り、それから僕が乗り、最後に文学が乗った。そういうのも映画の通りだった。文学がドアを閉めると、何も言わないうちに車は発車した。
道路は混んでいたが、パトカーはサイレンなんか鳴らさずにゆっくりと走った。乗り心地はタクシーと大体同じだった。メーターがないだけだった。走っている時間よりは停まっている時間の方が多く、おかげでまわりの車の運転手は僕の顔をみんなじろじろと覗きこんだ。誰も口をきかなかった。漁師の方は腕を組んでじっと前方を見ていた。文学の方は風景描写の練習でもしているみたいに難しい顔つきで窓の外を睨んでいた。いったいどんな描写をするんだろうと僕は思った。きっとわけのわからない言葉をつかった暗い描写なんだろう。
「概念としての春は暗黒の潮流とともに激しくやってきた。その訪れは都市の間隙にこびりついた名も知れぬ人々の情念を揺すり起こし、それを不毛の流砂へと音もなく押し流していった」
僕はそういう文章を片っ端から添削していきたかった。「概念としての春」ってなんだ?「不毛の流砂」ってなんだ?でもさすがに途中で馬魔馬鹿しくなってやめた。渋谷の街は相変わらずちゃらちゃらとした道化服みたいな格好をした頭の悪そうな中学生でいっぱいだった。情念も流砂も何もなかった。
警察に着くと、僕は二階の取り調べ室に連れていかれた。小さな窓のある四畳半くらいの広さの部屋だった。窓からは殆ど光が入ってこなかった。隣の建物と近接しすぎているのだろう。部屋の中には机がひとつあり、事務椅子がふたつ、そしてビニール・シートの補助用の椅子がふたつ置いてあった。壁にはこれ以上シンプルには作れまいという感じの時計がかかっていた。それだけだった。他には何もない。カレンダーもかかってないし、絵もかかってない。書類棚もない。花瓶もない。標語もない。茶器セットもない。机と椅子と時計があるだけだった。机の上には灰皿とベン皿が置かれ、端の方に書類ばさみが積んであった。彼らは部屋に入るとコートを脱ぎ、畳んで補助椅子の上に置き、それから僕をスチール製の事務椅子に座らせた。そして僕の向かいに漁師が座った。文学はちょっと離れたところに立って、手帳をぱらぱらと繰っていた。しばらく二人とも何も言わなかった。僕も何も言わなかった。
「ところで、あんた昨日の夜、何してました?」とたっぷりと間を置いてから漁師が口を開いた。考えてみると漁師が口をきいたのはそれが初めてだった。
昨日の夜、と僕は思った。昨日の夜はどんな夜だったろう?昨日の夜と一昨日の夜の区別がつかない。一昨日の夜とその前日の夜の区別がつかない。不幸なことだが、事実なのだ。僕はしばらく黙って考えていた。思い出すのに時間がかかる。
「あんたね」と漁師が言った。そして咳払いした。「法律的なことなんたらかんたら言い出すとけっこう時間かかりますよ。ただ単に簡単なことを聞いてるだけなんですからね。昨日の夕方から今日の朝まで何してたか。簡単なことじゃないですか。答えてくれたって損はないでしょ?」
「だから今考えてるんですよ」と僕は言った。
「考えないと思い出せないの?昨日のことですよ。去年の八月のことを尋ねてるわけじゃないです。考える余地もないでしょうが」と漁師が言った。
だからそれが思い出せないんだよ、と言おうかと思ったが言わなかった。たぶんそういう記憶の一時的欠落なんて彼らには理解できないだろう。頭がおかしいと思われるのがおちだ。
「待ちますよ」と漁師は言った。「待つからゆっくりと思い出してちょうだい」そして彼は上着のポケットからセブン・スターを出して、ビックのライターで火をつけた。「あんた、吸う?」
「いらない」と僕は言った。先端的都市生活者は煙草を吸わないと『ブルータス』に書いてあった。でも二人はそんなことにはお構いなく美味そうに煙草を吸った。漁師はセブン・スターを吸い、文学はショート・ホープを吸った。二人ともチェーン・スモーキングに近かった。彼らは『ブルータス』なんか読まないのだ。全然トレンディーじゃない人達なのだ。
「五分待ちましょう」と文学が相変わらず表情のない平板な声で言った。「その間に何とかちゃんと思い出していただけませんでしょうかね。昨日の夜、何処で何してたか」
「だからね、この人インテリなんだよ」と漁師が文学のほうを向いて言った。 「調べたら前にも取り調べ受けてた。ちゃんと指紋が登録されてた。学生運動。公務執行妨害。書類送検。こういうのになれてるんだ。筋金入りなんだよ。警察が嫌いなんだ。法律にも詳しい。憲法で保障された国民の権利とかそういうことをちゃんと詳しく知ってる。もうすぐ弁護士を呼べって言い出すよ」
「でも我々は任意同行してもらって、ごく簡単な質問してるだけですよ」と文学がいかにも驚いたという風に漁師に言った。「何も逮捕するとかそういうことを言ってるわけじゃないですよ。よくわからないな。弁護士を呼ぶ理由なんてなにもないでしょう?どうしてそういうややこしい考え方をするんだろう?理解に苦しみますねえ」
「だからさ、私は思うんだけど、この人はただ単に警察が嫌いなんじゃないかな。警察と名のつくものがとにかく何でも生理的に嫌いなんだよ。パトカーから交通巡査まで。だからそんなものになんか死んでも協力したくないと思っているんだろうね」と漁師が言った。
「でも大丈夫ですよ。はやく答えれば、はやく家に帰れるんだから。実際的なものの考え方ができる人ならきっとちゃんと応えてくれますよ。それにね、昨日の夜何をしてたかっていう質問されただけで弁護士呼んだって来やしませんよ。弁護士さんだって忙しいんだから。インテナならそれくらいのことわかりますよ」
「まあね」と漁師は言った。「そういうことをきちんとわかっていただければ、お互い時間が節約できるというものだわな。こっちだって忙しいし、この人だって忙しいだろう。長引くとお互い時間の無駄だし、それに疲れる。これが結構疲れるんだ」
かけあい漫才が続いているうちにその五分が過ぎた。
「さて」と漁師が言った。「どうでしょう、何か思い出していただけましたかね?」
思い出せなかったし、思い出そうという気も起きなかった。そのうちにたぶん思い出すだろう。でもとにかく今は思い出せない。記憶が欠落したまま戻ってこないのだ。「どういうことなのか、まず事情が知りたいですね」と僕は言った。「事情がわからないことには何も言えない。事情がわからないうちに、不利なことは言いたくない。それにまず事情を説明してから質問するのが人の礼儀だ。あなたたちのやってることは全然礼儀にかなってない」
「不利なことは言いたくない」と文学が文章を検証するように繰り返した。 「礼儀にかなってないだって」
「だからインテリだって言っただろう」と漁師が言った。「ものの見方がひねくれているんだね。警察が嫌いなんだ。朝日新聞をとって『世界』を読んでるんだ」
「新聞なんかとってないし、『世界』も読んでない」と僕は言った。「とにかくどういうわけで僕がここに連れてこられたか教えてくれないうちは何も喋りたくないですね。こづきまわすんなら好きなだけこづきまわしていい。こっちはどうせ暇なんだ。時間なんかいくらでもある」
二人の刑事はちらっと顔を見合わせた。
「事情を教えたら質問に答えてもらえますかね?」と漁師が言った。
「たぶん」と僕は言った。
「この人にはさりげないユーモアの感覚があるね」と文学が腕組みをして壁 の上の方を見ながら言った。「たぶん、だって」
漁師が鼻の上に真横についた傷を指の腹でさすった。刃物の傷みたいに見えた。けっこう深く、まわりの肉がひきつっていた。「あのですね」と彼は言った。「私ら、忙しいんですよ。それに真剣なんです。早くこれかたづけてしまいたいんです。私らだって好きでこれやってるわけじゃないです。できることなら夕方の六時には家に帰って、家族と一緒にゆっくりと飯を食べたい。私らあんたに別に恨みもないし、含むところもない。あんたが昨日の夜どこにいて何してたかそれを教えてくれたら、それ以上何も要求しない。やましいことがなかったら教えてまずいこともないでしょう?それとも何かやましいところがあるから言えないの?」
僕はテーブルの上のガラスの灰皿をじっと眺めていた。
文学が手帳をぱたんと叩いてからポケットにしまった。三十秒ばかり誰も何も言わなかった。漁師がまたセブン・スターをくわえて火をつけた。
「筋金入りなんだ」と漁師が言った。
「人権擁護委員会でも呼ぶ?」と文学が言った。
「あのね、こういうの人権でもなんでもないんだよ」と漁師が言った。「こういうのは市民の義務なんだよ。市民は警察の捜査にできる限り協力せにゃならんって、ちゃんと法律にも書いてあるんだよ。あんたの好きな法律にもちゃんとそう書いてあるんです。どうしてそんなに警察を毛嫌いするんですか?あんただって警官に道を訊いたことくらいあるでしょう?泥棒が入ったら警察に電話かけるでしょう?もちつもたれつじゃないですか。どうしてこんな簡単なことで協力してくれないんです。本当に簡単な形式的質問じゃないですか?昨日の夜、あなたは何処で何してたか?ややこしいことなしで早く済ませちゃいましょう。そうすれば我々も次に進める。あんたも家に帰れる。万事オーケーです。そう思いませんか?」
「まず、事情を知りたいですね」と僕は繰り返した。
文学がポケットからティッシュ・ベーパーを出し、大きな音を立てて洟をかんだ。漁師は机の引きだしからプラスティックの定規を出して、手のひらをぱたぱたと叩いた。
「あんた、わかってるのかな?」と文学がティッシュ・ベーパーを机の脇のごみ箱に捨てながら言った。「あんたは自分の立場をどんどん悪くしてるんですよ」
「なあ、今は一九七○年じゃないんだよ。あんたとここで反権力ごっこしてる暇はないの」とうんざりしたように漁師が言った。「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね。穴でも掘って。でも今ここでつっぱったって何の得もないよ、お互い。消耗だよ。インテリならそういうことわかるでしょうが?」
「まあね、僕らもちょっと疲れていて、ロのきき方がいささか荒っぽかったかもしらん。だとしたら悪かった。謝りますよ」と文学が手帳をまたぱらぱらと繰りながら言った。「でもね、僕らも疲れてるんだよ。働きっぱなしに働いてる。昨日の夜から殆ど寝てない。子供の顔をもう五日も見てない。ろくに飯も食ってない。あんたの気にいらないかもしれないけど、僕らだって僕らなりに社会の為に働いているんです。そこにあんたが出てきてつっぱらかって何も答えてくれない。そりゃあいらいらもしますよ。わかるでしょう?あんたが自分の立場を悪くしてるというのはね、結局僕らも疲れるとどんどん機嫌が悪くなるってことなんだよね。簡単に済ませられるはずのことも簡単に済まなくなってくる。物事がこじれてくる。もちろんあんたが頼れる法律はある。国民の権利もある。でもそういうのを運用するのは時間がかかる。時間がかかるあいだ、あんたは不愉快な目にあうかもしれない。法律というのはすごくこみいっていて、手間がかかるもんだからね、どうしても現場の運用次第というところはあるよね。理解してもらえるかな、そういうの?」
「誤解されると困るけど、別に威してるんじゃないよ」と漁師が言った。「忠告してるんだ、彼は。我々だってあんたを不快な目にあわせたいと思ってるわけじゃない」
僕は黙って灰皿を見ていた。灰皿には何のしるしもついていなかった。ただ古くて汚いガラスの灰皿だった。最初は透明だったのだろうが、今ではもうそうではなかった。白く濁って、隅にはヤニがこびりついていた。何年くらいこの机の上に載っているんだろう、考えてみた。十年は載ってるな、と僕は想像した。
漁師はしばらくブラスティックの定規をいじりまわしていた。
「いいでしょう」と彼はあきらめたように言った。「事情を説明しましょう。本当は我々にも質問する手順というものがあるんだが、あんたの方にも言い分があるみたいだから、今はそれに従いましょう。今のところは」
そして定規をテーブルの上に置くと、紙ぱさみをひとつ取り、ぱらぱらとめくって封筒を手に取り、そこから大型の写真を出して僕の前に差し出すようにして置いた。僕はその三枚の写真を手にとって見た。白黒の実際的な写真だった。それが芸術的な目的で写されたものでないことは一目でわかった。写真には女が写っていた。まず最初は裸の背中を向けてベッドにうつぶせになっている写真だった。手脚が長く、尻がしまっていた。髪が扇のように広がって首から上を隠していた。脚は心持ち広げられ、性器が見えた。手は横にだらんと伸ばされていた。女は眠っているように見えた。ベッドには特徴らしいものはなかった。
二枚目のはもっとリアルだった。女はあおむけにされていた。乳房と陰毛と顔が見えた。手と脚はきちんと気をつけの姿勢になっていた。女が死んでいることには説明の必要がなかった。目が見開き、ロもとが妙にこわばって歪んでいた。メイだった。
僕は三枚目の写真を見た。顔をアッブで写した写真だった。メイだった。間違いない。でも彼女はもうゴージャスではなかった。彼女は凍りついた無感動とでもいったようなものを身に纏っているだけだった。首のまわりにごしごしとこすったあとのような筋がかすかについていた。ロの中がからからに乾いて、唾がうまく飲み込めなかった。手のひらの皮膚がむず痒くなった。メイ。彼女の素敵なセックス。僕らは朝までかけて楽しく雪かきをし、ダイア・ストレイツを聴き、そしてコーヒーを飲んだのだ。そして死んでしまった。今はもうい
ない。僕は首を振りたかった。でも振らなかった。僕は三枚の写真を重ねて、何事もなかったように漁師に返した。二人は僕が写真を見ている様子をじっと観察していた。それで?という顔で僕は漁師の顔を見た。
「その女のことは御存じでしょうかね?」と漁師が言った。
僕は首を振った。「知りませんね」と僕は言った。もし僕が知っていると言えば、当然のことながら五反田君がこれに巻き込まれることになる。彼が僕とメイのリンクであるからだ。でも今ここで彼を巻き込むわけにはいかない。あるいは彼もこの事件にもう既に巻き込まれているかもしれない。それは僕にはわからない。もしそうだとしたら、そして五反田君が僕の名前を出し、僕がメイと寝たことを既に喋っていたとしたら、僕はかなりまずい立場に立たされることになる。僕は嘘の供述をしたことになるからだ。そうなるともう冗談事ではすまない。それは賭だった。でもいずれにせよ僕の方から五反田君の名前を持ち出すわけにはかないのだ。彼と僕とでは立場が違う。そんなことをしたら偉い騒ぎになる。週刊誌が飛んでくる。
「もう一度ようく見て」と漁師がゆっくりとして含みのある口調で言った。「すごく大事なことだから、もう一度よく見て、それで答えてちょうだい。どう、この女に見覚えある?嘘だけはつかないで下さいね。私らはプロだから、誰かが嘘をつくと嘘だってちゃんとわかります。警察で嘘をつくと、これはひどいことになります。わかりました?」
僕はもう一度時間をかけて三枚の写真を見た。目を背けたかったが、背けるわけにはいかなかった。
「知らない」と僕は言った。「でも、死んでる」
「死んでる」と文学が文学的に繰り返した。「すごく死んでる。非常に死んでる。全く死んでる。見たらわかる。僕らそれ見ましたよ、現場で。いい女だった。それが裸で死んでた。いい女だったということは一目でわかった。でも死んでしまうとね、いい女かどうかってもうあまり関係ないね。裸なんてのも関係ないね。ただの死人だね。放っておきゃ腐っていく。肌が破れてめくれて腐った肉が出てくる。すごい臭いがする。虫がわいてくる。あんたそういうの見たことあります?」
ない、と僕は言った。
「僕ら何回か見たことありますよ。そこまでいくと、ただ肉が腐っているだけ。腐ったステーキ肉と同じ。いい女だったかどうかもわからない。あの臭い嗅ぐとちょっとしばらく飯食えないね。僕らはプロだけど、あの臭いだけは駄目だ。あれには馴れることできないね。それからもっと時間がたつと、今度は骨だけになる。ここまでいくと臭いはない。何も彼も干からびてる。白くて、綺麗なもんです。骨は清潔でいいよね。で、まあ、とにかく、この女はそこまでは行ってなかった。骨までも行ってないし、腐ってもいない。ただ死んでるだけ。ただ硬くなってる。コチコチ。いい女であったこともよくわかる。生きているうちにああいういい女としっぽりやれたらいいだろうね。でも裸を見ていても何も感じない。もう死んでるから。我々と死人というのは全然違うものなんですよ。死人というのはね、石の像と同じなんですよ。つまりね、こう分水嶺があって、そこを一歩でも越えるとゼロになる。完全なゼロになるんです。あとは焼かれるのを待つだけ。でもいい女だった。かわいそうにね。生きていればずっといい女でいられたのにね。誰かが殺したんだ。いけないことだよ。この女の子にも生きる権利があったんだ。まだ二十歳ちょっとだよ。だれかにストッキングで首を絞められた。なかなか急に死ねない。死ぬまでに時間がかかる。すごく苦しい。自分が死んでいくんだってことがわかる。どうして私がこんなところで死ななくちゃならないんだろう、と思う。もっと生きていたいと思う。酸素が少なくなって窒息していくのが感じられる。頭がぼうっとしてくる。小便をしてしまう。なんとか助かろうともがく。でも力が足りない。ゆっくり死ぬ。あまりいい死に方じゃないね。僕らは彼女にそういう死に方をさせた犯人を捕まえたいですね。捕まえなくちゃならんですよ。これは犯罪なんだ。それも非常に悪質な犯罪だ。力のあるものが暴力的に力の弱いものを殺しているんだ。それは許されないことです。そういうことを許していたら、社会の根底が揺らいでしまう。犯人を捕まえて、処罰する。それが我々の義務です。そうしないと、犯人はまた別の女を殺すかもしれない」
「この女は昨日の昼頃に赤坂の高級ホテルのダブル・ルームをリザーブして、五時に一人で入った」と漁師が言った。「あとで夫が来ると言った。名前と電話は偽物。金は先払いだった。六時にルーム・サービスで夕食を一人分とった。その時は一人だった。七時には盆が廊下に出してあった。そしてドントディスターブの札が出ていた。翌日の十二時がチェックアウト・タイムだった。十二時半にフロント係が電話したが、誰も出なかった。ドアにはまだドントディスターブの札がかかっていた。ノックしたが、返事はなかった。ホテルの従業員が合鍵で鍵を開けた。女が裸で死んでいた。一枚目の写真と同じ格好で。男が来たところは誰も見てない。最上階にレストランがあって、みんなしょっちゅうエレベーターで行ったり来たりしている。出入りが激しい。だからここのホテルはよく密会につかわれている。足がつかない」
「ハンドバッグの中には手掛かりになるものは何もなかった」と文学は言った。「免許証もなし、手帳もなし、クレジット・カードもなし、キャッシュ・カードもなし、何もなし。服にはイニシャルがついてない。あるのは化粧道具と三万円ちょっと入った財布と、避妊ピルだけ。他には何もなし。いやひとつだけあった。財布のいちばん奥のちょっとわかりにくいところにね、名刺が一枚入っていた。あんたの名刺」
「本当に知らない?」と漁師が念を押すように言った。
僕は首を振った。僕だってできることなら警察に協力して、彼女を殺した犯人を捕まえてやりたかった。でも、僕はまず生きている人間のことを考えなくてはならないのだ。
「じゃあ、あんたが昨日何処で何をしてたかを教えてくれますか?これで我々があんたにわざわざここに来てもらって事情聴取している理由がわかったでしょう?」と文学が言った。
「六時に家でひとりで食事して、それから本を読んで、酒を何杯か飲んで、十二時前に寝た」と僕は言った。僕の記憶はやっと回復していた。たぶんメイの死体写真を見たせいだろう。
「その間誰かに会った?」と漁師が質問した。
「誰にも会ってない。ずっとひとりだったから」と僕は言った。
「電話はどう?誰かから電話はかかってこなかったですか?」
誰からもかかって来なかった、と僕は言った。「九時前後にひとつかかってきたけど、留守番電話をいれてたから出なかった。後で聞いてみたら仕事の電話だった」
「どうして家にいるのに留守番電話にしてたんだろう?」と漁師が訊いた。
「今休暇中なんで仕事の関係者と話がしたくなかったからですね」と僕は言った。
彼らがその電話の相手の名前と電話番号を聞きたがったので、僕は教えた。
「それで、一人で夕食食べてから、ずっと本を読んでたの?」と漁師が質問した。
「まず皿を片付けて、それから本を読んだ」
「どんな本?」
「信じないかもしれないけど、カフカの『審判』」
漁師は紙にカフカの『審判』と書いた。どういう字かわからなかったので文学が教えた。僕が予想したとおり彼はちゃんとカフカの『審判』のことを知っていた。
「そして、それを十二時まで読んでいた、と」と漁師は言った。「酒も飲んでいた」
「夕方にまずビール。それからブランディー」
「どれくらい飲みました?」
僕は思い出してみた。「缶ビールが二本。それからブランディーを瓶に四分の一くらい。缶詰の桃も食べましたね」
漁師はそれを全部紙にメモした。缶詰の桃も食べた。「他に思い出せることがあったら思い出してくれますか?どんな細かいことでもいいから」
僕はしばらく考えてみたが、それ以上何も思い出せなかった。本当に細かい特徴のない夜だったのだ。僕は一人で静かに本を読んでいただけだった。そしてその特徴のない静かな夜にメイは誰かにストッキングで絞め殺されていた。思い出せない、と僕は言った。
「ねえ、真剣に考えた方がいいよ」と文学が咳払いしてから言った。「あんた、今すごく不利な立場にいるんだからね」
「いいですか、僕は何もしてないんだから、不利も何もない」と僕は言った。 「僕はフリーランスで仕事をしている人間だから、名刺くらい仕事先で幾らでも配っている。どうしてその女の子が僕の名刺を持っていたのか見当もつかないけど、だからといって僕がその子を殺したことにはならないでしょう」
「全然関係のない名刺ならわざわざ財布の奥に大事に一枚だけ持っていたりしないでしょうが」と漁師が言った。「我々は二つ仮説を持ってる。まず第一にこの女はあんたがたの業界の関係者で、ホテルで男と逢引をして、おそらくはその相手に殺された。相手の男がバッグの中の足がつきそうなものを洗いざらい持っていった。ただし名刺だけは財布のいちばん奥に入ってたんで取り忘れた。第二に、この女はプロだった。売春婦。高級売春。一流ホテルを使うやつ。この手合いは足がつきそうなものはまず身につけていない。それが何らかの理由で客に殺された。金は取られてないから、犯人は異常者かもしれない。この二つの線が考えられる?どうです?」
僕は黙って少し首を傾けた。
「どちらにしても、あんたの名刺がキイになっている。なにしろ今のところ我々にはそれしか手掛かりがないんだから」と漁師がボールベンの頭でこんこんとテーブルを叩きながら言い含めるように言った。
「名刺なんて名前を印刷しただけの紙きれだ」と僕は言った。「証拠にも何にもならない。それだけじゃ何も立証できない」
「今のところはね」と漁師は言った。彼はずっとボールペンの頭でテーブルを叩き続けていた。「それだけじゃ何も立証できない。実にそのとおりです。今鑑識が部屋と遺留品を調べてます。遺体解剖もしている。明日になればもう少しいろんな事がはっきりします。繋がり具合がわかります。それまで待つしかない。待ちましょう。待っている間にあんたにももっといろいろと思い出してほしい。あるいは一晩かかるかもしらんが、徹底的にやります。じっくり時間をかければ、いろいろと思い出すことも出てくるかもしれない。もう一度きちんと最初からやりましょう。きちんと昨日一日のことを思い出してもらいます。朝からひとつひとつ順番に」
僕は壁の時計を見た。時計はいかにも面白くなさそうに五時十分を指していた。僕はその時突然ユキとの約束を思い出した。
「電話を貸してくれませんか?」と僕は漁師に言った。「五時に人と会う約束してたんです。大事な約束だ。連絡しないとまずいことになる」
「女の子?」と漁師が訊いた。
「そう」と僕は答えた。
彼は肯いて電話を僕の方に向けて差し出した。僕は手帳を出してユキの電話番号を調べてダイヤルを回した。三回目のコールで彼女が出た。
「用事ができて行けないって言うんでしょう?」とユキが先に言った。
「事故なんだよ」と僕は説明した。「僕のせいじゃない。悪いとは思うけどどうしようもないんだ。警察につれてこられて取り調べを受けてる。赤坂署にいる。説明すると長くなるんだけど、とにかく簡単には解放してもらえそうもない」
「警察?何をしたのよ、いったい?」
「何もしてない。殺人事件の参考人として呼ばれてるんだ。巻き込まれてるんだよ」
「馬鹿みたい」とユキは無感動に言った。
「たしかに」と僕も認めた。
「ねえ、あなたが殺したわけじゃないんでしょう?」
「もちろん僕が殺したわけじゃない」と僕は言った。「僕はいろいろと失敗もするし間違いも犯すけれど、人を殺したりはしないよ。事情を聞かれてるだけだよ。いろいろ質問されてるんだ。でもとにかく君には悪いことをした。そのうちにちゃんと埋め合わせするから」
「本当に馬鹿みたい」とユキは言った。そしてがちゃんと叩きつけるように電話を切った。
僕も受話器を置いて、電話を漁師に返した。二人は僕とユキの話にじっと耳を傾けていたが、特に得るところはなかったようだった。でももし僕が十三歳の女の子とデートの約束をしていたなんて知ったら、彼らはきっと僕に対する疑いを一層深めるだろうなと想像した。きっと異常性欲者か何かだと思うだろう。世間一般の三十四歳の男は十三の女の子とデートしたりはしない。
彼らはそれから僕の昨日一日の行動について微にいり細にわたって詳しく質問し、それを書類にした。便箋のような紙に厚紙の下敷きを敷いてボールベンできちんとした字で書きこんだ。何の意味もない馬鹿馬鹿しい書類だった。時間と労力の浪費だった。そこには僕が何を食べて、何処に行ったかが実に克明に記されていた。僕はに食べたこんにゃくの煮物の作り方まで詳しく説明した。冗談半分でかつおぶしの削り方間で説明した。でも彼らには冗談は通じなかった。彼らはひとつひとつ丁寧にそれを書きとめた。かなり分厚い書類になった。本当に無意味な書類。六時半に彼らは近くの仕出し屋から弁当をとってくれた。あまり立派な弁当とは言えなかった。どちらかと言えばジャンク・フードに近っかた。肉だんごとか、ポテト・サラダとか、ちくわの煮物とかが入っていた。味つけも材料もあまり感心できる代物ではなかった。油はしつこくて、味つけは濃かった。漬物は人工着色料を使っていた。でも漁師も文学も同じものをとても美味そうに食べていたので、僕も残さずに全部食べた。緊張して食事も喉を通らないんだろうと思われるのが癩だったからだ。
食事が終わると、文学が薄くて生温いお茶を持ってきてくれた。お茶を飲みながら二人はまた煙草を吸った。狭い部屋の中は煙でいっぱいになっていた。目が痛くなり、上着にまでニコチンの臭いが染み付いていた。お茶の時間が終わると、質問がまた始まった。限りのな無意味さの蓄積だった。『審判』をどのあたりからどのあたりまで読んだかとか、何時頃にパジャマに着替えたかとか、そういうつまらないことだ。僕はカフカの小説のあらすじを漁師に説明してやったが、その内容はあまり彼の興味を引かなかったようだった。そのストーリーは彼にとってあまりにも日常的すぎたのかもしれない。フランツ・カフカ小説は果して二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は『審判』のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。僕はだんだん馬鹿馬鹿しくなってうんざりしてきた。そして疲れてきた。頭が上手く働かなくなってきた。それはあまりにも瑣末で、あまりにも無意味だった。でも彼らは辛抱強くあらゆる事象の隙間をみつけてはそれについて質問し、それに対する僕の答えを用紙にこと細かに書きつけていった。時々字がわからなくて、漁師が文学に訊いた。彼らはそういう作業には全然うんざりしていないようだった。おそらく疲れてはいるのだろうが、決して手は抜かなかった。どんな細かいことにもどこかに穴がないかと耳を澄ませ、目を光らせていた。時々どちらかが外に出て、五、六分してから戻ってきた。彼らはタフな人々だった。
八時になると質問する係が漁師から文学に代わった。漁師はさすがに腕が疲れたらしく、立ったまま伸びをしたり手を振ったり首を回したりしていた。そしてまた煙草を吸った。文学も質問に入る前にまず一本煙草を吸った。換気の悪い部屋の中には、まるでウェザー・リボートのステージみたいに部屋じゅうに白い煙がたちこめていた。ジャンク・フードと煙草の煙。僕は外に出て思いきり深呼吸がしたかった。
便所に行きたいと僕は言った。ドアを出て右に行って突き当たって左、と文学が言った。僕はゆっくり小便して深呼吸して帰ってきた。便所で深呼吸するというのも変なものだったし、事実あまり気分の良いものではなかった。でも殺されたメイのことを思うと贅沢は言えなかった。少なくとも僕は生きているのだ。少なくとも僕は呼吸ができるのだ。
便所から戻ると文学が質問を再開した。その夜僕に電話をかけてきた相手について彼は詳しく質問した。どんな関係なのか?どんな仕事で関わったのか?
どんな用事があってかけてきたのか?どうして折り返しすぐに電話しなかったのか?どうしてそんなに長い休暇をとったのか?それだけの経済的余裕はあるのか?税金の申告はしているのか?そんな様々な細かい事を訊いた。僕が答えると彼はそれを漁師と同じように時間をかけて綺麗な楷書で用紙に書き込んだ。そんな作業に本当に意味があると彼らが思っているのかどうか、僕には判断できなかった。そういうのは考えるまでもなく、彼らにとっては日常的な作業なのかもしれない。フランツ・カフカ的に。あるいは彼らは僕をぐったりさせて、それによって真実をひっぱりだそうとわざとこういう下らない事務作業を延々と続けているのかもしれなかった。そしてもしそうだとしたら、彼らは実にちゃんとその目的を達していた。僕はくたくたになって、うんざりして、質問されたことは全部ちゃんと答えるようになっていた。何でもいいから早く終わらせてしまいたかった。
でも十一時になってもその作業は終わらなかった。終わる歓侯すら見えなかった。十時に漁師が部屋を出て、十一時に戻って来た。仮眠を取ったらしく、目が少し赤くなっていた。彼は自分がいない間に書かれた書類をチェックした。そして文学と代わった。文学はコーヒーを三杯持ってきた。インスタント・コーヒーだった。おまけに砂糖とクリープまで入っていた。ジャンク・フード。
僕はもううんざりだった。
十一時半に疲れて、眠くて、もうこれ以上は何も喋れない、と僕は宣言した。
「弱ったな」と文学は机の上で指を組んでぽきぽきと乾いた音を立てながらいかにも弱ったように言った。「これすごく急いでるし、捜査にとって重要なことなんです。申し訳ないんいたですが、できることならこのまま頑張って何とか最後までやってしまいたいんですがね」
「こういう質問が重要だとはとても思えないんですがね」と僕は言った。「正直言って瑣末なことのように思える」
「しかし瑣末なことがあとになって結構役に立つんです。瑣末なことで事件が解決した例は幾つもあります。逆に瑣末なことをおろそかにして後悔した例も幾つかあります。なにしろこれは殺人ですからね。人が一人死んでるんです。我々だって真剣なんす。悪いけど我慢して協力してください。正直言いましてね、やろうと思えば重要参考人としてあんたの拘置許可をとることもできるんです。でもそういうことするとお互い面倒が増える。そうでしょう?いっぱい書類がいる。融通もきかなくなる。だからここはひとつ穏便にやりましょう。や。協力してくれれば、そういうあらっぽい措置は取りません」
「眠いんなら、仮眠室で寝たらどうです?」と漁師が横から口を出した。「横になってぐっすり寝たらまた何か思い出すかもしれん」
僕は肯いた。どこでもいい。こんな煙っぽい部屋にいるよりはどこでもましだった。
漁師が僕をその仮眠室に連れていってくれた。陰気な廊下を歩き、もと陰気な階段を降り、また廊下を歩いた。何もかもに陰惨さがしみついているような
場所だった。彼の言う仮眠室というのは留置所のことだった。
「ここは僕には留置所のように見えますがね」と僕はとてもとても乾いた微笑みを浮かべて言った。「もし思い違いじゃなかったらということだけど」
「ここしかないんだ、申し訳ないけど」と漁師は言った。
「冗談じゃないよ。家に帰る」と僕は言った。「明日の朝、また来る」
「いや、鍵はかけないから」と漁師は言った。「ねえ、頼みますよ。今日一日だけ我慢してよ。留置所だって鍵をかけなきゃただの部屋でしょう」
僕はあれこれ押し問答するのがだんだん面倒臭くなってきた。もうどうでもいい、と僕は思った。たしかに留置所だって鍵をかけなきゃただの部屋なのだ。とにかく僕はひどく疲れていて、ひどく眠かった。誰とももうこれ以上話をしたくなかった。ロをききたくなかった。僕は頭を振り、何も言わずに中に入って固いベッドに寝転んだ。懐かしい感触だった。湿ったマットレスと安物の毛布、便所の臭い。絶望感。
「鍵はかけないから」と漁師は言ってドアを閉めた。かちゃんというひどく冷たい音がした。鍵を掛けても掛けなくても、ちゃんと冷たい音がするのだ。
僕は溜め息をついて、毛布をかぶった。誰かが何処かで大きな鼾をかいているのが聞こえた。その音はすごく遠くから聞こえるようでもあり、近くのようでもあった。僕の知らないうちに地球がいくつもの行き来できない細かい絶望的な層に分かれていて、その近接した層のどこかからもれ聞こえてくるような感じの音だった。物哀しくて、手が届かなくて、そしてリアルだった。メイ、と僕は思った。そういえば、僕は昨日の夜君のことを思い出していたんだ。その時君はまだ生きていたのか、あるいはもう死んでいたのか、どちらかはわからない。でも僕はとにかくその時君のことを思い出していた。君と寝た時のことを。君の服をゆっくりと脱がせた時のことを。あれは本当に、何というか、同窓会みたいだったよ。世界中のネジが緩んだみたいに僕はリラックスしていた。そういうのって本当に久し振りだった。でもね、メイ、僕が君にしてあげられることは今のところ何もない。悪いけど、何もないんだ。君にもわかっているとは思うけれど、我々はみんなとても脆い人生を送っているんだ。僕としては五反田君をスキャンダルに巻き込むわけにはいかないんだ。彼はイメージの世界で生きている男だ。彼が売春婦と寝て、殺人事件の参考人として呼ばれたなんてことが世間に漏れたら、そのイメージの世界はダメージを受けることになるんだ。番組もコマーシャルも降ろされるかもしれない。下らないといえば下らない。下らないイメージで、下らない世間だ。でも彼は僕を友達として信用して、遇してくれた。だから僕も彼を友達として扱う。それは信義の問題なんだ。メイ、山羊のメイ、僕は君と二人でいてとても楽しかった。君と寝ることができてとても楽しかった。童話みたいだった。それが君にとって慰めになるかどうかは僕にはわからないけど、でも君のことはずっと忘れないで覚えている。我々は二人で朝まで雪かきをしたのだ。官能的雪かき。僕らはイメージの世界で、経費を使って抱き合ったのだ。熊のブーと山羊のメイ。首を締められるのはすごく苦しかったろう。まだ死にたくなんかなかっただろう。たぶん。でも僕には何もしてあげられない。こうすることが本当に正しいのかどうか、正直言って僕にもわからない。でも、僕にはこうするしかないんだ。それが僕の生き方なんだ。システムなんだ。だから僕は口をつぐんで何も言わない。おやすみ、山羊のメイ、少なくとも君はもう二度と目が覚めないで済む。二度と死なないで済む。
おやすみ、と僕は言った。
オヤスミ、思考がこだました。
かっこう、とメイが言った。

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