ダンス・ダンス・ダンス

僕は映画館の座席に深くしずみこみ、鼻の前で両手の指を組んでいつもの同じ質問を自らに向かって発した。さて、これからどうすればいいんだろう?いつもの質問。でも落ち着いてじっくり考える必要がある。整理する必要がある。僕がやるべきこと。
繋がりの混乱を解消すること。
たしかに何かが混乱している。それは間違いない。キキと僕と五反田君が絡み合っている。どうしてそんなことになったのか見当もつかないが、とにかく絡み合っているのだ。ほぐさなくてはならない。現実性の回復をとおしての自己の回復。あるいはこれは繋がりの混乱ではなく、それとは無関係に生じつつある新たな繋がりなのかもしれない。でもいずれにせよ、僕としてはこの線を辿ってみるしかないだろう。この糸を切れないように注意深く辿っていくのだ。これが手掛かりなのだ。とにかく動くこと。立ちどまらないこと。踊り続けること。みんなが感心するくらいうまく踊ること。
踊るんだよ、と羊男が言う。
オドルンダヨ、と思考がこだまする。
いずれにせょ東京に帰ろう、と僕は思った。これ以上ここにいてもしかたない。僕がいるかホテルを訪れた目的はもう充分に達している。東京に帰って態勢を立て直してその結びつきを手繰っていってみよう。僕はコートのジッパーを上げ、手袋をはめ、帽子をかぶり、マフラーを鼻の上にぐるぐると巻いて映画館を出た。雪はますます激しく降り、殆ど前も見えないくらいだった。街全体が冷凍された死体のように絶望的に固く凍りついていた。
僕はホテルに戻ると全日空のオフィスに電話をかけて午後一番の羽田行きを予約した。「雪が激しくて、直前になってあるいは遅れるか欠航するかということになるかもしれませんが、よろしいでしょうか?」と予約係の女性が言った。かまわない、と僕は言った。帰るときめたからには一刻も早く東京に戻りたかった。それから僕は荷物をまとめ、下におりて勘定をすませた。そしてカウンターに行って眼鏡をかけた彼女をレンタカーのデスクに呼んだ。
「急に用事ができて、東京に帰ることになったんだ」と僕は言った。
「どうも有り難うございました。またお越しくださいませ」と彼女はにっこりと営業的に微笑みながら言った。たぶんこんな風に急に帰ると言い出したことで彼女は少し傷つけられているのだろうと僕は思った。傷つきやすいのだ。
「ねえ」と僕は言った。「また来るよ。近いうちに。その時に二人でゆっくりと食事でもして、いろんなことを話そう。君にきちんと話さなくちゃいけないこともあるんだ。でも今は僕は東京に帰っていろんなことを整理しなくちゃならないんだ。段階的思考。前向きの姿勢。総合的展望。そういうのが僕に求められている。それが終わったら、またここに来る。何カ月かかるかはわからない。でもちゃんと戻ってくる。どうしてかと言えば、ここは僕にとって……つまり何というか、特別な場所であるような気がするからだ。だからおそかれはやかれここに戻ってくる」
「ふふん」と彼女はどちらかというと否定的に言った。
「ふふん」と僕はどちらかというと肯定的に言った。「でもきっと僕の言ってることは馬鹿みたいに聞こえるんだろうね」
「そんなことないわ」と彼女は無表情に言った。「何カ月かかるかわからない先のことがまっまく考えられないだけよ」
「それほど先のことではないと思うよ。また会える。何故なら僕と君との間にはなにかしら相通じるところがあるから」と僕は彼女を説得するように言った。でも彼女は説得されたようには見えなかった。「そんな風に感じない?」僕は訊いてみた。
彼女はボールペンの頭で机をとんとんと叩いただけで僕の質問には答えなかった。「それで、次の飛行機で帰るのかしら、ひょっとして?」と彼女は言った。
「そのつもりだよ。飛んでくれさえすればね。でも何しろこの天候だから、どうなるかはきりしたことはわからない」
「次の飛行機で帰るんだったら、ひとつお願いがあるんだけど、きいてくれる?」
「もちろん」
「実は十三の女の子がひとりで東京に帰らなくちゃならないの。お母さんが用事ができて先に何処かにいっちゃったの。で、その子がひとりでここのホテルに残されたの。悪いけど、あなたその子をちゃんと東京まで連れていってくれないかしら?荷物もけっこうあるし、一人で飛行機に乗せるのも心配だし」
「よくわからないな」と僕は言った。「どうしてお母さんが子供を一人で放り出して何処かに行っちゃったりするんだよ?そんなの無茶苦茶じゃないか?」
彼女は肩をすぼめた。「だからまあ、無茶苦茶な人なのよ。有名な女性カメラマンなんだけど、ちょっと変わった人なの。思いつくとどっかにさっと行っちゃうの。子供のことを忘れちゃって。ほら、芸術家だから、何かあるとそれで頭が一杯になっちゃうのね。あとで思い出してうちに電話をかけてきたの。子供をそこに置いてきちゃったんで、適当に飛行機に乗せて東京に帰してほしいって」
「そんなの自分で引き取りにくりゃいいじゃないか」
「そんなこと私知らないわよ。とにかくあと一週間仕事でどうしてもカトマンズにいなくちゃならないんだって。それにその人有名な人だし、うちのお得意さんだし、そう邪険にも出来ないのよ。彼女は空港まで運んでくれればあとは一人で帰れるからって気楽にいうんだけど、そうもいかないでしょう。女の子だし、もし何かあったらうちとしてもすごく困るのよ。責任問題になっちゃうし」
「やれやれ」と僕は言った。それから僕はふと思いついたことを口に出してみた。「ねえ、その子ひょっとして髪が長くて、ロック歌手のトレーナーを着て、ウォークマンを聴いてない、いつも?」
「そうよ。何だ、ちゃんと知ってるんじゃない」
「やれやれ」と僕は言った。
彼女は全日空のオフィスに電話をかけて僕と同じ便の座席を予約した。それからその女の子の部屋に電話をかけて、荷物をまとめてすぐに下りてくるように、一緒に帰る人がみつかったから、と言った。大丈夫、よく知っているちゃんとした人だから、と彼女は言った。次にボーイを呼んで、彼女の部屋に荷物を取りにやらせた。そしてホテルのサービス・リムジンを呼んだ。きびきびとしてとても手際がよかった。有能だった。とても手際がいい、と僕は言った。
「この仕事好きだって言ったでしょう。向いてるのよ」
「でも、からかわれるとムキになる」と僕は言った。
彼女はまたボールペンで机をとんとんと叩いた。「そういうのはまた別なの。冗談言われたりからかわれたりするのって、あまり好きじゃないの。昔から。そういうことされるとすごく緊張するの、私」
「ねえ、君を緊張させるつもりなんか全然ない」と僕は言った。「逆だよ。僕はリラックスしたいから冗談を言うんだ。下らなくて無意味な冗談かもしれないけれど、僕だって僕なりに努力して冗談を言ってるんだ。もちろん時によっては自分が考えてるほど相手が面白がってくれないこともある。でも別に悪意はないんだ。何も君のことを笑っているわけじゃない。僕が冗談を言うのは、僕にとってそういうのが必要だからだよ」
彼女は少し唇をすぼめて僕の顔を眺めていた。丘の上に立って洪水の引いたあとを眺めるような目付きだった。それから彼女は溜め息をつくような、鼻をならすような、複雑な声を出した。「ところであなたの名刺を頂けないかしら?一応女の子を預けた手前、立場上」
「立場上」と僕はもそもそと口ごもりながら、財布から名刺をひっぱりだして彼女に渡した。僕も一応名刺くらいは持っている。一応名刺くらいは持っている必要があると十二人くらいの人に忠告されたのだ。彼女は雑巾でも見るみたいにじっとその名刺を見ていた。
「ところで君の名前は?」と僕は訊いてみた。
「今度会った時に教えてあげる」と彼女は言った。そして中指で眼鏡のブリッジを触った。
「もし会えたら」
「もちろん会えるよ」と僕は言った。彼女は新月のように淡く物静かな微笑を浮かべた。
十分後に女の子がボーイと一緒にロビーに下りてきた。ボーイはサムソナイトの大きなスーツケースを持っていた。ドイツシェパードが立ったまま一匹入りそうなくらい大きなスーツケースだった。たしかにこんなものを十三の女の子に持たせて空港に置き去りにするわけにもいかない。彼女は今日は「TALKING HEADS」と書かれたトレーナーシャツを着て、細いブルージーンズとブーツを履き、その上に上等そうな毛皮のコートを羽織っていた。前に見た時と同じように彼女には透き通るような奇妙な美しさが感じられた。とても微妙なーー明日消えたとしてもおかしくなさそうなーー美しさだった。でもその美しさは見るものにある種の不安定な感情を起こさせるような気がした。たぶんそれが微妙すぎるからだろう。「トーキング・へッズ」と僕は思った。悪くないバンド名だった。ケラワックの小説の一節みたいな名前だ。
「語りかける頭が俺の隣でビールを飲んでいた。俺はひどく小便がしたかった。小便をしてくるぜと俺は語りかける頭に言った」
懐かしきケラワック。今はどうしているものか。
女の子は僕を見た。でも彼女は今度はにっこりとはしなかった。眉をしかめるようにして僕を見て、それから眼鏡の女の子を見た。
「大丈夫。悪いひとじゃないから」と彼女は言った。
「みかけほど悪くない」と僕も言い添えた。
女の子はまた僕を見た。それからまあ仕方ないという風に何度か肯いた。よりごのみできる立場じゃないんだ、というように。それで僕は彼女に対してすごくひどいことをしているような気になった。なんだかスクルージ爺さんになったような気分だった。
スクルージ爺さん。
「心配しないで大丈夫よ」と彼女が言った。「このおじさんは冗談もうまいし、気のきいたことも言ってくれるし、女の子には親切なの。それにお姉さんのお友達なの。だから大丈夫よ、ね?」
「おじさん」と僕は唖然として言った。「僕はまだおじさんじゃない。まだ三十四だ。おじさんはひどい」
でも誰も僕の言うことなんか聞いていなかった。彼女は女の子の手をとって玄関に止まったリムジンの方にさっさと歩いて行ってしまった。ボーイはサムソナイトをすでに車の中に積み込んでいた。僕は自分のバッグを下げてその後を追った。おじさん、と僕は思った。ひどい。
 

空港行きのリムジンに乗ったのは僕とその女の子だけだった。天候がひどすぎるのだ。空港までの道中どこを向いても雪と氷しか見えなかった。まるで極地だ。
「ねえ、君、名前はなんていうの?」と僕は女の子に聞いてみた。
彼女はじっと僕の顔を見た。そして小さく首を振った。やれやれという風に。 それから何かを探すようにゆっくりと回りを見回した。どこを向いても雪しか見えなかった。「雪」と彼女は言った。
「雪?」
「名前」と彼女は言った。「それ。ユキ」
それから彼女はウォークマンをポケットからひっぱりだして、個人的な音楽の中にひたった。空港に着くまで僕の方をちらりとも見なかった。
ひどい、と僕は思った。あとになってわかったことだけれど、ユキというのは彼女の本当の名前だった。でもその時は、それはどう考えても即席のでっちあげの名前に思えた。それで僕はちょっと傷つきもした。彼女はときどきポケットからチューインガムを出して一人で噛んでいた。僕には一枚も勧めてはくれなかった。僕はべつにチューインガムなんてほしくはなかったけれど、儀礼的に勧めてくれたっていいんじゃないかという気はした。そういう何やかやで、僕はなんだか自分がひどくみすぼらしく歳取ってしまったような気がした。仕方ないので僕はシートに深く身を沈め、目を閉じた。そして昔のことを思い出した。僕が彼女の年頃であった当時のことを。そういえば僕もその頃はロック・レコードを集めていた。45回転のシングル盤を。レイ・チャールズの『旅立てジャック』やら、リッキー・ネルソンの『トラヴェリン・マン』やら、ブレンダ・リーの『オール・アローン・アム・アイ』、そういうのを百枚くらい。歌詞を暗記するくらい毎日繰り返して聴いた。僕は頭の中で試しに『トラヴェリン・マン』の歌詞を思い出して歌ってみた。信じられない話だけれど、まだ歌詞を全部覚えていた。どうしようもない下らない歌詞だったが、歌ってみるとちゃんとすらすら出てきた。若い頃の記憶力というのは大したものだ。無意味な事柄を実によく覚えている。

And the China doll
down in old Hongkong
waits for my return.

トーキング・へッズの歌とは確かにずいぶん違う。時代は変わるーータアアアイムズ・ア・チェエエエンジン…・
僕はユキを待合室にひとり置いて、空港カウンターに行って切符を買った。あとで精算するつもりで、二人分の料金を僕のクレジット・カードで払った。搭乗までにあと一時間あったが、たぶんもっと遅れることになるだろうと係員が言った。「アナウンスがありますから、気をつけていてください」と彼女は言った。「とにかく今のままでは視界が悪すぎるんです」
「天候は回復するかな?」と僕は訊いてみた。「予報はそうなっているんですけどね、でも何時間かかるかはわかりませんね」と彼女はうんざりしたように言った。同じ事を二百回らい言ってるのだ。まあ誰だってうんざりするだろう。
僕はユキのところに戻って、雪が止まないので少し飛行機が遅れることになりそうだ、と言った。彼女は僕の顔をちらっと見てから〈ふうん〉という顔をした。でも何も言わなかった。
「どうなるかわからないから、荷物はチェックインしないでおこう。一度チェックインしちゃうと戻してもらうのが面倒だからね」と僕は言った。
〈お好きに〉という顔を彼女はした。でも何も言わなかった。
「しばらくここで待つしかないね。それほど面白い場所でもないけど」と僕は言った。「ところで昼御飯は食べた?」
彼女は肯いた。
「コーヒーショップにでも行かないか?何か飲みたくない?コーヒーかココアか紅茶かジュースか、何でも」と僕はきいてみた。
〈どうかしら〉という顔を彼女はした。感情表現が豊かだ。
「じゃあ行こう」と僕は言って立ち上がった。そしてサムソナイトを押して、彼女と一緒にコーヒーショップに行った。コーヒーショップは混んでいた。どの便も出発が遅れているらしく、みんな一様に疲れた顔をしていた。そんなざわざわとした店の中で僕は昼食がわりにコーヒー、とサンドイッチを頼み、ユキはココアを飲んだ。
「ねえ、何日くらいあのホテルに泊まってたの?」と僕は聞いてみた。
「十日」と彼女は少し考えてから言った。
「お母さんはいつ行っちゃったの?」
彼女はしばらく窓の外の雪を見ていた。それから「三日前」と言った。まるで初歩英会話のレッスンをやっているみたいだった。
「学校は春休みなの、ずっと?」
「学校は行ってないの、ずっと。だから放っておいて」と彼女は言った。そしてポケットからウォークマンを出して、ベッドフォンを耳にあてた。
僕はコーヒーの残りを飲み、新聞を読んだ。どうも最近僕は女の子を怒らせてばかりいる。どうしてだろう?運が悪いだけなのだろうか、それとももっと根本的な原因があるのだろうか?
たぶん運が悪いだけだ、と僕は結論を下した。そして新聞を読んでしまうと、フォークナーの『響きと怒り』の文庫本をバッグから出して読んだ。フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。それ以外の時期にはまず読まない。途中でユキは一度洗面所に行った。そしてウォークマンの電池を入れ替えた。三十分ほどあとで、アナウンスがあった。羽田行きの便は四時間遅れて出発するというアナウンスだった。天候の回復を待つのだ。僕は溜め息をついた。やれやれ、ここであと四時間も待つのか。
でもまあ仕方ない。そういうことは最初に警告されていたのだから。もっと前向きに積極的にものを考えよう、と僕は思った。パワー・オブ・ボジティブ・シンキング。五分ボジティブに考えて、ちょっとしたアイデアが閃いた。上手くいくかもしれないし、上手く行かないかもしれない。でもこんなうるさくて煙草臭いところで漫然と時間をつぶしているよりはずっといい。僕はユキにちょっとここで待っていてと言って、空港のレンタカー会社のカウンターまで行った。そして車を借りたいと言った。カウンターの女性はすぐに手続きしてくれた。カー・ステレオつきのカロラ・スプリンターだった。僕はマイクロバスでレンタカー・オフィスまで運ばれ、そこでカローラのキイを渡された。オフィスは空港から車で十分ほどのところにあった。新しいスノー・タイヤのついた白いカローラだった。僕はその車に乗って、空港まで戻った。そしてコーヒーショップに行って、ユキに「これから三時間ほどこの辺をドライブしてみようよ」と言った。
「だってこんなに雪が降ってるのよ。ドライブといっても何も見えないでしょう?」と彼女ははあきれたように言った。「それにいったい何処に行くの?」
「何処にもいかない。車に乗って走るだけ」と僕は言った。「でも大きな音で音楽が聴ける。音楽が聴きたいんだろう。たっぷり聴かせてあげるよ。ウォークマンばかり聴いていると耳が悪くなる」
彼女はどうかしらという風に首を振った。でも僕がさあ行こうと言って立ち上がると、席を立ってついてきた。
僕はスーツケースをかつぎあげてトランクに放り込み、雪の降りしきる道路をゆっくりと何処にいくともなく車を走らせた。ユキはショルダー・バッグの中からカセット・テープを出して、カー・ステレオに入れ、スイッチを押した。デヴィッド・ボウイが『チャイナ・ガール』を歌っていた。それからフィル・コリンズ。スターシッブ。トマス・ドルビー。トム・ペティー&ハートブレーカーズ。ホール&オーツ。トンブソン・ツインズ。イギー・ボップ。バナナラマ。そういうローティーンの女の子がごく普通に聴きそうな音楽がずっと続いていた。ストーンズが『ゴーイン・トゥー・ア・ゴーゴー』を歌った。「この曲知ってる」と僕は言った。「昔ミラクルズが歌ったんだ。スモーキー・ロビンソンとミラクルズ。僕が十五か十六の頃」
「へえ」とユキは興味なさそうに言った。
「ゴオイン・トゥ・ア・ゴッゴ」と僕も曲にあわせて歌った。

それからポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンが『セイ・セイ・セイ』を歌った。道路を走っている車は少なかった。ほとんどないと言ってもいいくらいだった。ワイパーがいかにも大儀そうに窓についた雪片をぱた・ぱた・ぱたと払い落としていた。車の中は暖かく、ロックンロールは心地良かった。デュランデュランでさえ心地良かった。僕はけっこうリラックスしてときどきテープにあわせて歌いながらまっすぐな道路をまっすぐに進んだ。ユキも少しは気持ちを楽にしているように見えた。彼女はその九十分テープを聴いてしまうと、僕がレンタカー・オフィスで借りてきたテープに目をとめた。「それ何?」と彼女は訊いた。オールディーズのテーブだと僕は答えた。空港に戻るまでの道中、暇つぶしに聴いていたのだ。「それ聴きたい」と彼女は言った。
「気に入るかどうかわからないよ。みんな古いものだから」と僕は言った。
「いいわよ、何でも。この十日くらいずっと同じテープばかり聴いてたんだ もの」
それで僕はそのテープをセットした。まずサム・クックが『ワンダフル・ワールド』を歌った。「僕は歴史のことなんてよく知らないけれど…,」、いい歌だ。サム・クプク、僕が中学三年生の時に撃たれて死んだ。バディー・ホリー『オー・ボーイ』。バディー・ホリーも死んだ。飛行機事故。ボビー・ダーリン『ビョンド・ザ・シー』。ボビー・ダーリンも死んだ。エルヴィス『ハウンド・ドッグ』。エルヴィスも死んだ。麻薬漬け。みんな死んだ。それからチャック・ベリーが歌った。『スイート・リトル・シックスティーン』。エディー・コクラン『サマータイム・ブルース』。エヴァリ・ブラザーズ『起きろよ、スージー』。
僕は歌詞の覚えている部分だけを一緒に歌った。
「よく覚えているのね」とユキが感心したように言った。
「そりゃそうだよ。僕も昔は君と同じくらい熱心にロックを聞いてたんだ」と僕は言った。「君と同じくらいの歳のころにさ。毎日ラジオにしがみついて、小遣いを貯めてレコードを買った。ロックンロール。世の中にこれくらい素晴らしいものはないと思ってた。聴いているだけで幸せだった」
「今はどうなの?」
「今でも聴いている。好きな曲もある。でも歌詞を暗記するほどは熱心に聴かない。昔ほどは感動しない」
「どうしてかしら?」
「どうしてだろう?」
「教えて」とユキは言った。
「本当にいいものは少ないということがわかってくるからだろうね」と僕は言った。「本当にいいものはとても少ない。何でもそうだよ。本でも、映画でも、コンサートでも、本当にいものは少ない。ロックミュージプクだってそうだ。いいものは一時間ラジオを聴いて一曲くらいしかない。あとは大量生産の屑みたいなもんだ。でも昔はそんなこと真剣に考えなかった。何を聞いてもけっこう楽しかった。若かったし、時間は幾らでもあったし、それに恋をしていた。つまらないものにも、些細なことにも心の震えのようなものを託することができた。僕の言ってることわかるかな?」
「何となく」とユキは言った。
デル・ヴァイキングズの『カム・ゴー・ウィズ・ミー』がかかったので、僕はしばらくそれを一緒に合唱した。「退屈じゃない?」と僕は聞いてみた。
「ううん。悪くない」と彼女は言った。
「悪くない」と僕も言った。
「今は恋をしないの?」とユキが訊いた。
僕はそのことについて少し真剣に考えた。「むずかしい質問だ」と僕は言った。「君は好きな男の子はいるの?」
「いない」と彼女は言った。「嫌な奴はいっぱいいるけど」
「気持ちはわかる」と僕は言った。
「音楽聴いてる方が楽しい」
「その気持ちもわかる」
「本当にわかる?」とユキは言って、疑わしそうに目を細めて僕を見た。
「本当にわかる」と僕は言った。「みんなはそれを逃避と呼ぶ。でも別にそれはそれでいい。僕の人生は僕のものだし、君の人生は君のものだ。何を求めるかさえはっきりしていれば、君は君の好きなように生きればいいんだ。人が何と言おうと知ったことじゃない。そんな奴らは大鰐に食われて死ねばいいんだ。僕は昔、君くらいの歳の時にそう考えていた。今もやはりそう考えている。それはあるいは僕が人間的に成長していないからかもしれない。あるいは僕が恒久的に正しいのかもしれない。まだよくわからない。なかなか解答が出てこない」
ジミー・ギルマー『シュガー・シャック』。僕は歯の隙間から口笛を吹いて運転した。道路の左手には真っ白な原野が広がっていた。「ただの小さな木作りのコーヒーショップ。エェスプレッソ・コーヒーが御機嫌にうまいんだ」。良い唄だ。一九六四年。
「ねえ」とユキが言った。「あなたちょっと変わってるみたい。みんなにそう言われない?」
「ふふん」と僕は否定的に言った。
「結婚してる?」
「一度した」
「離婚したの?」
「そう」
「どうして?」
「奥さんに逃げられたんだ」
「本当、それ?」
「本当だよ。奥さんが他の男の人を好きになって一緒に何処かに行っちゃっ たんだ」
「可哀そう」と彼女は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
「でも奥さんの気持ちわかるような気がする」とユキは言った。
「どんな風に?」と僕は聞いてみた。
彼女は肩をすぼめて何も言わなかった。僕もあえて聞きたいとは思わなかった。
「ねえ、チューインガム食べる?」とユキが訊いた。
「ありがとう。でもいらない」と僕は言った。
僕らは少しずつ仲良くなって、ビーチ・ボーイズの『サーフィンUSA』のバック・コーラスをふたりでつけた。
「inside-outside-USA」とか、そういう簡単なやつ。でも楽しかった。『へルプ・ミー・ロンダ』のリフも二人で歌った。僕もまだ捨てたものではない。僕はスクルージ爺さんではないのだ。そうこうするうちに雪がだんだん小降りになってきた。僕は空港に戻り、キイをレンタカーのカウンターに戻した。そして荷物をチェックインし、三十分後にゲートに入った。飛行機は結局五時間遅れて離陸した。ユキは飛行機が離陸するとすぐに眠りこんでしまった。彼女の寝顔はすばらしく綺麗だった。何かしら非現実的な材料で作った精密な彫像みたいに美しかった。誰かが強く突くと壊れてしまいそうに見えた。そういう種類の美しさだった。スチュワーデスがジュースを運んでやってきて、彼女の寝顔を見てとても眩しそうな顔をした。そして僕に向かって微笑んだ。僕も微笑んだ。僕はジン・トニックを注文した。そしてそれを飲みながら、キキのことを考えた。僕は頭の中で彼女と五反田君がベッドの中で抱き合っているシーンを何度も何度も再生してみた。カメラがまわりこむように移動した。キキがそこにいた。「どうしたっていうのよ?」と彼女は言った。
ドウシタッテイウノヨ、と思考がこだました。

 

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