ダンス・ダンス・ダンス

よくいるかホテルの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。
ホテルそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりをはっきりと感じることができる。僕は、夢の中では、そのホテルの一部である。
そういう夢だ。
目が覚める。ここはどこだ?と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかける。 「ここはどこだ?」と。でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは僕の人生なのだ。僕の生活。僕という現実存在の付属物。特に認めた覚えもないのにいつの間にか僕の属性として存在するようになったいくつかの事柄、事物、状況。隣に女が眠っていることもある。でも大抵は一人。部屋の真向かいを走る高速道路のうなりと、枕もとのグラス(底に五ミリほどウィスキーが残っている)と、敵意をもったーーいや、それは単なる無関心さなんだろうかーー塵だらけの朝の光。時には雨が降っている。雨が降っていると、僕はそのままベッドの中でぼんやりとしている。グラスにウィスキーが残っていれば、それを飲む。そして軒から落ちる雨垂れを眺めながら、いるかホテルのことを考える。手脚をゆっくりと伸ばしてみる。そして自分がただの自分であり、何処にも含まれてなんかいないことを確かめる。僕は何処にも含まれてはいない。でも夢の中の感触を僕はまだ覚えている。そこでは僕が手を伸ばそうとすれば、それに呼応して僕を含んだ全体像が動く。水を利用した細かい仕掛けのからくりのように、ひとつひとつゆっくりと注意深く、段階ごとにほんの微かな音を立てながら、それは順番に反応していく。僕が耳を澄ませれば、それが進行していく方向を聞き取ることができる。僕は耳を澄ます。そして誰かの静かな啜り泣きの声を聞き取る。とても静かな声。闇の奥の何処かから聞こえてくる啜り泣き。誰かが僕のために泣いているのだ。
いるかホテルは現実に存在するホテルだ。札幌の街のあまりぱっとしない一角にある。僕は何年か前にそこに一週間ばかり泊まったことがある。いや、きちんと思いだそう。はっきりとさせておこう。あれは何年前だ?四年前。いや、正確に言うと四年半前だ。僕はその時はまだ二十代だった。僕はある女の子と二人でそのホテルに泊まった。彼女がそのホテルを選んだ。そのホテルに泊まろうと彼女が言ったのだ。そのホテルに泊まらなくては、と彼女は言ったのだ。もし彼女が要求しなかったら、僕はいるかホテルになんてまず泊まらなかっただろうと思う。
それは小さなみすぼらしいホテルで、僕らのほかには泊まり客の姿は殆ど見あたらなかった。僕がその一週間の滞在中にロビーで見掛けた客は二人か三人かそれくらいだったし、それだって泊まり客なのかどうかわかったものではない。でもフロントのボードに掛かった鍵がところどころ欠けていたから、僕らの他にも泊まり客はいたはずだと思う。それほど多くないにしても、少しくらいは。幾らなんでも仮にも大都市の一角にホテルの看板を掲げ、職業別電話帳にだってちゃんと番号が出ているのだ、まったく客が来ないということは常識的に考えてありえない。しかしもし僕らの他に客がいたとしても、彼らはおそろしく物静かでシャイな人々だったはずだ。僕らは彼らの姿を殆ど見掛けなかったし、その物音も聞かなかったし、気配も感じなかった。ボードの上の鍵の配置だけが毎日少しずつ変わった。彼らは息をひそめたぶん薄い影のように壁を這って廊下を行き来していたのだろう。ときどきかたかたかたかたというエレベーターの走行音が遠慮がちに響いたが、その音が止むと、沈黙は前よりかえって重くなったように感じられた。
とにかく不思議なホテルだった。
それは僕に生物進化の行き止まりのようなものを連想させた。遺伝子的後退。間違えた方向に進んだまま後戻りできなくなった奇形生物。進化のベクトルが消滅して、歴史の薄明の中にあてもなく立ちすくんでいる孤児的生物。時の溺れ谷。それは誰のせいでもない。誰が悪いというわけでもないし、誰にそれが救えるというものでもない。まずだいいちに彼らはそこにホテルを作るべきではなかったのだ。あやまちはまずそこから始まっていた。第一歩から、全てが間違っていた。最初のボタンがかけ違えられ、それにあわせて全てが 致命的に混乱していた。混乱を正そうとする試みはあらたな細かいーー洗練されているとは言えない、ただ細かいだけだーー混乱を生み出した。そしてその結果、何もかもが少しずつ歪んで見えた。そこにある何かをじっと見ようとすると、ごく自然に首が何度か傾いてしまうのだ。そのような歪み。傾けるといってもほんの僅かの角度だから特に実害はないし、べつに不自然さを感じるほどでもないし、ずっとそこにいればそれに馴れてしまうのかもしれないが、やはりいささか気になる歪み(それにそんなものに馴れてしまったら、今度はまともな世界を見る時に首を傾けることにもなりかねない)。
いるかホテルはそういうホテルだった。そしてそれがまともじゃないということはーーそのホテルが混乱に混乱を重ねた末に飽和点に達して、やがて遠からぬ将来に時の大渦にすっぽりと飲み込まれていくであろうことはーー誰が見たって一目瞭然だった。哀しげなホテルだった。十二月の雨に濡れた三本脚の黒犬みたいに哀しげだった。もちろん哀しげなホテルなんて世間には他にもいっぱいあるだろうが、いるかポテルはそういうのともまた少し違う。いるかホテルはもっと概念的に哀しげなのだ。だから余計に哀しい。
言うまでもないことだとは思うけれど、そんなホテルをえらんでわざわざ泊まろうなどという人間は、何も知らずに間違えてやってくる客を除けば、そんなにはいない。
いるかホテルというのは正式な名称ではない。正式にはそれは「ドルフィン・ホテル」というのだが、その名前と実体から受ける印象がかなり掛け離れているので(ドルフィン・ホテルという名前は僕にエーゲ海あたりの砂糖菓子のように真っ白なリゾート・ホテルを連想させる)、僕が個人的にそう呼んでいるだけだ。入り口にはいるかを描いたなかなか立派なレリーフがかかっている。看板もかかっている。でももし看板がかかっていなければ、それは全然ホテルには見えないだろうと思う。看板があってさえ、なかなかそうは見えないくらいなのだ。何に見えるかというと、それはまるでうらぶれた博物館のように見える。特殊な展示物を見るために、特殊な好奇心を抱いた人々がひっそりやってくるような、そんな特殊な博物館。
でももし人がいるかホテルを眼前にしてそのような印象を抱いたとしても、それは決して的外れな想像力の飛翔ではない。実を言えば、いるかボテルの一部は博物館を兼ねているのである。
誰がそんなホテルに泊まるだろう?その一部がわけのわからない博物館になっているようなホテルに?暗い廊下の奥に羊の剥製やら、埃だらけの毛皮やら、黴臭い資料やら、茶色く変色した古い写真やらが積みかさねてあるようなホテルに。果たされざる想いが乾いた泥のように隅々にしっかりとこびりついているようなホテルに?
全ての家具は色褪せ、全てのテーブルは軋み、全ての鍵は上手く閉まらなかった。廊下は磨り減り、電球は暗かった。洗面台の栓は歪んでいて、水がうまくたまらなかった。太ったメイド(彼女の脚は象を連想させた)は廊下を歩きながらコホコホと不吉な咳をした。いつもカウンターにいる支配人は哀しげな目をした中年の男で、指が二本なかった。この男は見るからに、何をやってもまずうまくは行かないというタイプだった。そういうタイプのまさに標本みたいな男だった。まるで淡い青インクの溶液に一日漬けておいてから引っ張り上げたみたいに、彼の存在の隅から隅までに失敗と敗退と挫折の影が染みついていた。ガラスの箱に入れて、学校の理科室に置いておきたくなるような男だった。「何をやっても上手くいかない男」という札をつけて。彼を見ているだけで大抵の人は多少の差こそあれ惨めな気持ちになったし、腹を立てる者も少なからずいた。ある種の人はそういうタイプの惨めな人間を見ているだけで意味もなく無性に腹が立ってくるのだ。誰がそんなホテルに泊まるだろう?
でも僕らは泊まった。我々はここに泊まるべきなのよ、と彼女は言った。そしてそのあとで彼女はいなくなってしまった。僕ひとりを残して消えてしまったのだ。彼女が行ってしまったことを僕に教えてくれたのは羊男だった。彼女は行ってしまったんだよ、と羊男は僕に教えてくれた。羊男は知っていたのだ。彼女が行かなくてはならなかったのだということを。僕にも今ではわかる。彼女の目的は僕をそこに導くことにあったからだ。それは運命のようなものだった。あたかもモルダウ河が海に達するように。僕は雨垂れを見ながら、そのことを考える。運命。僕がいるかホテルの夢を見るようになった時に、まず思い浮かべたのは彼女のことだった。彼女が僕をまた求めているのだ、と僕はふと思った。そうでなければ、どうしてこんなに何度も同じ夢を見るのだ?
彼女、僕は彼女の名前さえ知らないのだ。彼女と一緒に何カ月か暮らしたというのに。僕は彼女について実質的には何ひとつ知らないのだ。僕が知っているのは彼女がある高級コールガール・クラブに入っているということだけだった。クラブは会員制で、身元の確かなきちんとした客しか相手にしなかった。ハイ・クラスの娼婦だ。彼女はそれ以外にもいくつかの仕事を持っていた。普段の昼間は小さな出版社でアルバイトの校正係をやっていたし、パートタイムに耳専門のモデルもやっていた。要するに彼女はとても忙しい生活を送っていたわけだ。彼女にはもちろん名前がないわけではなかった。実際の話彼女は幾つも名前を持っていた。でもそれと同時に彼女には名前がなかった。彼女の持ち物ーー殆どないも同然だったがーーのどれにも名前は入っていなかった。定期券も、免許証も、クレジット・カードも持っていなかった。小さな手帳をひとつ持っていたが、そこには訳のわからない暗号がボールペンでぐしゃぐしゃと書きこんであるだけだった。彼女の存在にはとりかかりというものがなかった。娼婦は名前を持っているかもしれない。でも彼女たちは名前を持たぬ世界で生きているのだ。
とにかく僕は彼女について殆ど何も知らない。どこで生まれたのかも、歳が幾つなのかも。誕生日だって知らない。学歴もしらない。家族がいるかどうかさえ知らない。何も知らない。彼女は雨ふりのようにどこかから来て、どこかに消えてしまったのだ。ただ記憶だけを残して。
でも今僕は僕のまわりで彼女の記憶が再びある種の現実性を帯び始めていることを感じる。僕はこう感じるのだ。彼女はいるかホテルという状況を通して僕を呼んでいる、と。そう、彼女は今また再び僕を求めているのだ。そして僕はいるかホテルにもう一度含まれることによってのみ、彼女ともう一度巡り合えるのだ。そしておそらく彼女がそこで僕の為に涙を流しているのだ。
僕は雨垂れを見ながら自分が何かに含まれるということについて考えてみる。そして誰かが僕の為に泣いていることについて考えてみる。それはひどくひどく遠い世界のことのように感じられる。まるで月か何かそういう所の出来事のように感じられる。結局のところ、それは夢なのだ。手をどれだけ長くのばしても、どれだけ早く走っても、僕はそこにたどりつけないような気がする。
どうして誰かが僕の為に涙を流したりするんだ?
いや、それでも、彼女は僕を求めているのだ。あのいるかホテルのどこかで。そして僕もやはり心のどこかでそれを望んでいるのだ。あの場所に含まれることを。あの奇妙で致命的な場所に含まれることを。
でもいるかホテルに戻るのは簡単なことではない。電話で部屋を予約し、飛行機に乗って札幌に行けばそれで終わりというものではないのだ。それはホテルであると同時にひとつの状況なのだ。それはホテルという形態をとった状況なのだ。いるかホテルに戻ることは、過去の影ともう一度相対することを意味しているのだ。それを考えると、僕はたまらなく陰惨な想いに襲われた。そう、僕はこの四年のあいだ、その冷ややかでうす暗い影を捨て去ることに全力を傾けていたのだ。そしているかホテルに戻るということは、僕がこの四年間静かにこつこつとためこんできた全てをあらいざらい放棄し捨て去ることなのだ。
もちろん僕はそれほど大したものを手に入れたわけではない。その殆どはどう考えてみても暫定的で便宜的ながらくただった。でも僕は僕なりにベストを尽し、そのようなガラクタをうまく組みあわせて現実と自分をコネクトし、僕なりのささやかな価値観に基づいた新しい生活を築きあげてきたのだ。もう一度もとのがらんどうに戻れということなのか?窓を開けてなにもかもを放り出せというのか?
でも結局のところ、全てはそこから始まるのだ。僕にはそれがわかっていた。そこからしか始まらないのだ。
僕はベッドに寝転び、天井を眺めながら、深い溜め息をついた。あきらめろ、と僕は思った。何を考えても無駄だ。それはお前の力を越えたものなんだ。お前が何を考えたところでそこからしか始まらないんだよ。決まってるんだ、ちゃんと。
僕のことについて語ろう。
自己紹介。
昔、学校でよくやった。クラスが新しくなったとき、順番に教室の前に出て、みんなの前で自分についていろいろと喋る。僕はあれが本当に苦手だった。いや、苦手というだけではない。僕はそのような行為の中に何の意味を見出すこともできなかったのだ。僕が僕自身についていったい何を知っているだろう?僕が僕の意識を通して捉えている僕は本当の僕なのだろうか?ちょうどテープレコーダーに吹き込んだ声が自分の声に聞こえないように、僕が捉えている僕自身の像は、歪んで認識され都合良くつくりかえられた像なのではないだろうか?……僕はいつもそんな風に考えていた。自己紹介をする度に、人前で自分について語らなくてはならない度に、僕はまるで成績表を勝手に書き直しているような気分になった。いつも不安でしかたなかった。だからそういう時、僕はなるべく解釈や意味づけの必要のない客観的事実だけを語るように心掛けたが(僕は犬を飼っています。水泳が好きです。嫌いな食べ物はチーズです。等々)、それでもなんだか架空の人間についての架空の事実を語っているような気がしたものだった。そしてそんな気持ちで他のみんなの話を聞いていると、彼らもまた彼ら自身とはべつの誰かの話をしているように僕には感じられた。我々はみんな架空の世界で架空の空気を吸って生きていた。
でもとにかく、何か喋ろう。自分について何か喋ることから全てが始まる。それがまず第一歩なのだ。正しいか正しくないかは、あとでまた判断すればいい。僕自身が判断してもいいし、別の誰かが判断してもいい。いずれにせよ、今は語るべき時なのだ。そして僕も語ることを覚えなくてはならない。僕は今ではチーズが好きだ。いつからかはわからないが、いつの間にか自然に好きになった。飼っていた犬は僕が中学校に上がった年に雨に打たれて肺炎で死んだ。それ以来犬は一匹も飼っていない。泳ぐのは今でも好きだ。
終わり。
でも物事はそんなに簡単には終わらない。人が何かを人生に求めるとき(求めない人間がいるだろうか?)人生はもっと多くのデータを彼に要求する。明確な図形を描くための、より多くの点が要求される。そうしないことには、何の回答も出てこない。
でーたフソクノタメ、カイトウフカノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
取消キイを押す。画面が白くなる。教室中の人間が僕に物を投げ始める。もっと喋れ。もっと自分のことを喋れ、と。教師は眉をしかめている。僕は言葉を失って、教壇の上に立ちすくんでいる。
喋ろう。そうしないことには、何も始まらない。それもできるだけ長く。正しいか正しくないかはあとでまた考えればいい。
時々、女が僕の部屋に泊まりにきた。そして朝食を一緒に食べ、会社に出勤していった。彼女にもやはり名前はない。でも彼女に名前がないのは、ただ単に彼女がこの物語の主要人物ではないからだ。彼女はすぐにその存在を消してしまう。だから混乱を避けるために僕は彼女に名前を与えない。しかしだからといって、僕が彼女の存在を軽んじていると考えてほしくない。僕は彼女のことがとても好きだったし、いなくなってしまった今でもその気持ちは変わっていない。
僕と彼女はいわば友達だった。少なくとも彼女は、僕にとって唯一友人と呼びうる可能性を持っていた人間である。彼女には僕の他にきちんとした恋人がいる。彼女は電話局に勤めていて、コンピュータで電話料金を計算している。職場について詳しいことは僕も訊かなかったし、彼女もとくには話さなかったが、だいたいそういう感じの仕事だったと思う。個人の電話番号ごとに料金を集計して請求書を作るとか、その手のことだ。だから毎月郵便受けの中に電話料金の請求書が入っているのを見る度に、僕はまるで個人的な手紙を受け取ったような気がしたものだった。
彼女はそういうこととは関係なく、僕と寝ていた。月に二回か、あるいは三回か、それくらい。彼女は僕のことを月世界人か何かだと考えていた。「ねえ、あなたまだ月に戻らないの?」と彼女はくすくす笑いながら言う。ベッドの中で、裸で、体をくっつけあいながら。彼女は乳房を僕の脇腹に押し付けている。僕らは夜明け前の時間によくそんなふうに話をしたものだった。高速道路の音がずっと切れ目なく続いている。ラジオからは単調なヒューマン・リーグの唄が聞こえている。ヒューマン・リーグ。馬鹿気た名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ。インペリアルズ、シュプリームズ、フラミンゴズ、ファルコンズ、インプレッションズ、ドアーズ、フォア・シーズンズ、ビーチ・ボーイズ。
僕がそう言うと彼女は笑う。そして僕のことを変わっていると言う。僕の何処が変わっているのか僕にはわからない。僕は自分自身を非常にまともな考え方をする非常にまともな人間だと思っている。ヒューマン・リーグ。
「あなたといるのって好きよ」と彼女は言う。「ときどきね、すごくあなたに会いたくなるの。会社で働いているときとかね」
「うん」と僕は言う。
「ときどき」と彼女は言葉を強調して言う。そして三十秒くらい間を置く。ヒューマン
・リーグの唄が終わり、知らないバンドの曲になる。「それが問題点なのよ、あなたの」と彼女は続ける。「私はあなたとふたりでこうしているのって大好きなんだけど、毎日朝から晩までずっと一緒にいたいとは思えないのよ。どういうわけか」
「うん」と僕は言う。
「あなたといると気づまりだとかそういうんじゃないのよ。ただ一緒にいるとね、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるみたいに」
「これは小さな一歩だけれどーー」
「ねえ、これ冗談じゃないのよ」と彼女は体を起こしてぼくの顔をじっとのぞきこんだ。
「私、あなたの為に言ってるのよ。誰かあなたの為に何か言ってくれる人、他にいる?どう?そういうこと言ってくれる人、他にいる?」
「いない」と僕は正直に言う。一人もいない。
彼女はまた横になって、乳房をやさしく僕の脇腹につける。僕は手のひらで彼女の背中をそっと撫でる。
「とにかく時々、月にいるみたいに空気が薄くなるのよ、あなたと一緒にいると」
「月の空気は薄くない」と僕は指摘する。「月面には空気は全く存在しないんだ。だからーー」
「薄いのよ」と彼女は小さな声で言う。彼女が僕の発言を無視したのか、あるいは全然耳に入らなかったのかは、僕にはわからない。でも彼女の声の小ささが僕を緊張させる。どうしてかはわからないけれど、そこには僕を緊張させる何かがふくまれている。「ときどきすうっと薄くなるのよ。そして私とはぜんぜん違う空気をあなたが吸っているんだと思うの。そう認識するの」
「データが不足しているんだ」と僕は言う。
「私があなたについて何も知らないということかしら、それ?」
「僕自身も自分についてよくわかってないんだ」と僕は言う。「本当にそうなんだよ。別に哲学的な意味で言ってるんじゃない。もっと実際的な意味で言ってるんだ。全体的にデータが不足している」
「でもあなたもう三十三でしょう?」と彼女は言う。彼女は二十六だ。
「三十四」と僕は訂正する。「三十四歳と二カ月」
彼女は首を振る。そしてベッドを出て、窓のところに行き、カーテンを開ける。窓の外には高速道路が見える。道路の上には骨のように白い午前六時の月が浮かんでいる。彼女は僕のパジャマを着ている。「月に戻りなさい、君」と彼女はその月を指し示して言う。
「寒いだろう?」と僕は言う。「寒いって、月のこと?」
「違うよ。今の君のことだよ」と僕は言う。
今は二月なのだ。彼女は窓際に立って白い息を吐いている。僕がそう言うと、彼女はやっと寒さに気づいたようだった。
彼女は急いでベッドに戻る。僕は彼女を抱き締める。そのパジャマはすごくひやりとしている。彼女は鼻先を僕の首に押し什ける。その鼻先もとても冷たい。「あなたのこと好きよ」と彼女は言う。
僕は何か言おうと思うのだけれど、上手く言葉が出てこない。僕は彼女に好意を抱いている。こうしてふたりでベッドの中にいると、とても楽しく時を過ごすことができる。僕は彼女の体を温めたり、髪をそっと撫でていたりするのが好きなのだ。彼女の小さな寝息を聞いたり、朝になって彼女を会社に送りだしたり、彼女が計算したーーと僕が信じているーー電話料金の請求書を受け取ったり、僕の大きなパジャマを彼女が着ているのを見たりするのが好きなのだ。でもそういうことって、いざとなると一言で上手く表現できない。愛しているというのではもちろんないし、好きというのでもない。
何と言えばいいのだろう?
でもとにかく僕には何も言えない。言葉というものがまったく浮かんでこない。そして僕が何も言わないことで彼女が傷ついていることが感じられる。彼女はそれを僕に感じさせまいとしているのだが、でも僕には感じられる。柔らかな皮膚の上から彼女の背中の骨の形を辿りながら、僕はそれを感じるのだ。とてもはっきりと。僕らはしばらく何も言わずに抱き合って、題もわからない唄を聴いている。彼女は僕の下腹にそっと手のひらをあてる。「月世界の女の人と結婚して立派な月世界人の子供を作りなさい」と彼女は優しく言う。「それがいちばんよ」
開け放しになった窓からは月が見えた。僕は彼女を抱いたまま、その肩越しにじっと月を見ていた。時折何かひどく重い物を積んだ長距離トラックが崩壊し始めた氷山のような不吉な音を立てて高速道路を走り抜けていった。いったい何を運んでいるのだろう、と僕は思った。
「朝御飯、何がある?」と彼女は僕に尋ねる。「特に変わったものはないね。いつもとだいたい同じだよ。ハムと卵とトーストと昨日の昼に作ったポテト・サラダ、そしてコーヒー。君のためにミルクを温めてカフェ・オ・レを作る」と僕は言う。
「素敵」と彼女は言って微笑む。「ハムェッグを作って、コーヒーをいれて、トーストを焼いてくれる?」
「もちろん。喜んで」と僕は言う。
「私のいちばん好きなことって何だと思う?」
「正直言って見当がつかない」
 「私がいちばん好きな事、何かというとね」と彼女は僕の目を見ながら言う。「冬の寒い朝に嫌だな、起きたくないなと思いつつ、コーヒーの香りと、ハムエッグの焼けるじゅうじゅういう匂いと、トースターの切れるパチンという音に我慢しきれずに、思い切ってさっとベッドを抜け出すことなの」
「よろしい。やってみよう」と僕は笑って言う。
僕は変わった人間なんかじゃない。
本当にそう思う。
僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にはしない。他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。
ある種の人間は僕を実際以上に愚鈍だと考えるし、ある種の人間は僕を実際以上に計算高いと考える。でもそれはどうでもいいことだ。それに「実際以上に」という表現は、僕の捉えた僕自身の像に比べてということに過ぎないのだ。彼らにとっての僕はあるいは現実的に愚鈍であり、あるいは計算高い。それは別にどちらでもいい。たいした問題ではない。世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。
しかしそれとは別に、その一方で、僕の中のそのまともさに引かれる人間がいる。とても数少なくはあるけれど、でも確かに存在する。彼ら/彼女たち、と僕とは、まるで宇宙の暗い空間に浮かぶ二つの遊星のようにごく自然に引き合い、そして離れていく。彼らは僕のところにやってきて、僕と関わり、そしてある日去っていく。彼らは僕の友人になり、恋人になり、妻にもなる。ある場合には対立する存在にもなる。でもいずれにせよ、みんな僕のもとを去っていく。彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入り口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかしいずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去っていった人々を。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。
彼らが見た僕の像はおそらくかなり正確なものだったのではないかという気がする。だからこそ彼らはみんな僕のところにまっすぐやってきて、そしてやがて去っていったのだ。彼らは僕の中にまともさを認め、僕がそのまともさを維持していこうとする僕なりの誠実さーーという以外の表現を思いつけないのだーーを認めた。彼らは僕に対して何かを言おうとしたり、心を開こうとしたりした。彼らの殆どは心優しい人々だった。でも僕には彼らに何かを与えることはできなかった。もし与えることができたとしても、それだけでは足りなかった。僕はいつも彼らに出来る限りのものを与えようと努力した。できるだけのことは全部やった。僕も彼らに何かを求めようとした。でも結局は上手くいかなかった。 そして彼らは去っていった。
それはもちろん辛いことだった。
でももっと辛いのは、彼らが入ってきた時よりずっと哀し気に部屋を出ていくことだった。彼らが体の中の何かを一段階磨り減らせて出ていくことだった。僕にはそれがわかった。変な話だけれど、僕よりは彼らの方がより多く磨り減っているように見えた。どうしてだろう?何故いつも僕が残されるのだ?何故だろう?そして何故いつも僕の手の中に磨り減った誰かの影が残されているのだ?何故だろう。わからないな。
データが不足しているのだ。
だからいつも解答がでてこないのだ。
何かが欠けているのだ。
ある日仕事の打ち合わせから戻ってみると、郵便受けに絵はがきが入っていた。宇宙飛行士が宇宙服を着て月面を歩いている写真の絵はがきだった。差しだし人の名前は書いてなかったけれど、それが誰からのはがきなのかは一目で理解できた。
「もう私たちは会わないほうがいいだろうと思います」と彼女は書いていた。「私はたぶん近いうちに地球人と結婚することになると思うから」
ドアの閉まる音が聞こえる。
でーたフソクノタメ、カイトウフカノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
画面が白くなる。
いつまでこんなことが続くのだろう?と僕は思った。僕はもう三十四だ。いつまでこれが続くのだ?
僕は哀しくはなかった。だってそれは明らかに僕の責任なのだ。彼女が僕のもとを離れていくのは当然のことだし、それは始めからわかっていたのだ。彼女にもわかっていたし、僕にもわかっていた。でも我々はささやかな奇跡を求めてもいたのだ。ちょっとしたきっかけで根本的な転換がやってくるかもしれないというようなことを。しかしもちろんそんなものはやってはこなかった。そして彼女は出ていった。彼女がいなくなったことで僕は寂しい気持ちになったが、それは以前にも経験したことのある寂しさだった。そして自分がその寂しさを上手くやりすごせるということもわかっていた。
僕は馴れつつあるのだ。
そう思うと僕は嫌な気持ちになった。内臓から黒い液がどっぷりと絞り出されて喉もとまで上がってくるような気がした。僕は洗面所の鏡の前に立って、これが俺自身だと思った。これがお前だ。お前が自分自身を磨り減らせてきたのだ。お前が思っているよりはずっと多くお前は磨り減ってきたんだ、と。僕の顔はいつもよりずっと汚く、ずっと老けて見えた。僕は石鹸で丁寧に顔を洗い、ローションを肌に磨り込み、それからまた手をゆっくり洗い、新しいタオルで手と顔をよく拭いた。そしてキッチンに行って缶ビールを飲みながら冷蔵庫の整理をした。萎びたトマトを捨て、ビールをきちんと並べ、容器をうつしかえ、買い物のリストを作った。
明け方に僕は一人でぼんやりと月を眺めながら、これがいつまで続くんだろうと思った。僕はやがてまたどこかで別の女にめぐりあうだろう。我々は遊星のように自然に引き合うのだ。そして我々はまたむなしく奇跡を期待し、時を食み、心を磨り減らせ、別れていくのだ。
それがいつまでつづくのだ?
 

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